歴史・人物

二足のわらじ

 前回の続き、のようなもの。氏家幹人氏の関心事、日本社会がなぜヤクザに弱いのかという問題を考える場合には、「武威」のアウトソーシングよりは、治安維持のアウトソーシングの方が重要なように思われる。すなわち、犯罪者集団と公的権力が相互依存するような政治文化である。
 ここでイメージしているのはいわゆる「二足のわらじ」である。博徒でありながら公権力の手先をつとめ、公儀の威光をかさにきて非道を働く鼻持ちならない存在、というようなイメージである。中には、国定忠治を密告した三室の勘助などもいる。
 この勘助について、高橋敏氏は名主などをつとめた人物で、「二足のわらじ」でなかったと論じておられる(『国定忠治』)。貴重な史料を掘り起こした業績には敬意を表するのだが、博徒でなかったという結論は如何だろう。「賭魁」という羽倉簡堂の表現を否定するほどの根拠は示されていないような気がする。
 勘助が「道案内」だとすれば、名主であることは不思議でない。三田村鳶魚『捕物の話』などによれば、そもそも関東取締出役の「道案内」をつとめるのは村役人クラスの有力農民である。犯人捕縛などに活躍する「番太=目明かし」と同一視する訳にはいかない。地域の有力者を治安維持に利用するのは、近世後期の関東に限定されていた訳ではあるまい。「引窓」(『双蝶々曲輪日記』八段目)の南方十次兵衛こと南与兵衛は、おそらくそこここに存在していたはずである。南与兵衛も品行方正とは言えないし、義侠心も持ち合わせているが、博徒ではない。ふたたび鳶魚によれば「博奕打のある者に十手を預ける」ケースはないでもないが、それは「百姓でありながら、身を持ち崩して博奕打の中に入っている者があるような場合には、昔のよしみで案内者になる」という道筋らしい(『侠客の話』)。そうだとすれば、「二足のわらじ」は博徒のくせに御用を務めているのではなく、御用を務めるような家柄なのに博徒になってしまったのではなかろうか。そして、出役の「道案内」をするのに、博徒であることはさして障害にならなかったらしい。(幕領ではこうしたことがなかったというから、全面的にOKではなかったのだろうが)
 「二足のわらじ」に限ったことではなく、大親分と呼ばれるような者はたいがい百姓上層の出身である。飯岡の助五郎は網元の養子だし、笹川の繁蔵は名主の子である。国定忠治は新田義貞郎従の末裔という草分百姓の家柄だし、清水の次郎長の実家は複数の船を所有している船頭で、養家は資産数千両という米穀商だった。どうしてそんな現象が起こるのか。これについても鳶魚の著述にヒントがある(『侠客の話』)。親分と立てられるような者は博奕で勝ってはいけないらしい。きれいに負けて子分たちを潤さなければ、人気が出ないのだそうだ。そうだとすれば、どこかに資金源がなければならぬ。悪どく稼ぐのもないではなかろうが、それも男を立てるにはマイナス要因になろう。結局は家から資金を調達できる立場が有利なのだ。親不孝の代名詞のような博徒でも、親ほどありがたいものはない、のかも知れない。
 そんな博徒であるから、出身の村落社会でも一定の地位を保有していた。国定忠治に人気があったというのは知られているが、飯岡助五郎も地元では評判がいいらしい。「博徒の分際」でというよりは、本来そういう役割を期待される「地域の有力者」としての顔なのではあるまいか。これはもちろん幕藩制の民衆支配策のありようとも関係している。広範に百姓の「自治」を認める、裏返しで言えば村に任せきりの幕藩権力。それと対応して一種の名望家政治を実現する百姓たち。「二足のわらじ」はそういう構図の中の一現象なのだ。
 ところで、今回全面的に依拠した鳶魚翁、管見の範囲では「二足のわらじ」という表現を用いていないようだ。この語に史料的な裏付けがあるものかどうか、はなはだ以て疑わしい。読者諸賢の御示教をたまわりたいものである。

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義士論争と敵討概念

 誤解があるといけないので、もう少し前回の続きを。
 別に「AがBを殺害し、報復としてbがAを殺害する」という「定式」を否定するつもりはない。ただ、おおむね元禄ごろまで活きていた「敵討」概念はこの定式におさまりきらないのではないか、ということを言いたいのである。それ以降に法制的な「敵討」概念が確立していく、という見通しがついてくる。赤穂事件後に儒者を中心に行われた、いわゆる「義士論争」を、その文脈に載せて理解することも可能だろう。
 この事件は、同時代的に「敵討」であることがほとんど自明であった。林鳳岡が『復讐論』を著したのは、これを「敵討」と認めたうえで、その漢語表現を採ったものと考えられる。これに異を唱えたのが佐藤直方で、要するに吉良が浅野を殺した訳ではないから讐にあたらないというのである。この論法は、この段階では少数のひねくれ者と言っていいだろう。三宅尚斎は「常式ノ讐ニハ非ズ」としながらもおおむね讐と認め、直方の議論を「目ノ子算用」(現代なら「形式的にすぎる」とでもいうところであろう)と批判する。浅見絅斎の「四十六士論」は「播州赤穂敵討ノ物語」と書き出しており、これが「敵討」であることに疑問を持たない。「吉良が浅野を討ったわけではない」という意見は、春秋の筆法を知らぬと一蹴される。「主君の敵を討つのは当たり前のこと、ほめるにはあたらない」とする「一武人」の議論を直方が援用するのは、大石らをほめないという一点で共通しているからであるけれど、これが「敵討」だったという前提に立つという意味では鳳岡らと同じである。ほかに荻生徂徠も敵討でないという主張をしているけれど、いわゆる義士論争の第一期では、「敵討にあたらない」という意見は旗色が悪い。
 ところが太宰春台以降の第二期では、少し風向きが違っている。春台自身、事件当時は「良雄らの行う所を義として」いたというぐらいだから、敵討だと認識していたに違いない。数年して学問が進み「吉良子は赤穂侯の讐に非ざるなり」と認識するようになり、大石らを非とする。春台の批判に反対し擁護の立論をするのが松宮観山や五井蘭州だが、第一期の義士論者とは異なり、復讐よりも亡君の遺志を継ぐと言っている部分を強調する。もちろんこの時期でも敵討だと主張する意見もあるが、第二期では「敵討ちにあたる」という議論を正面からすることが回避される傾向が見られる。正面から議論すると「敵討ちにあたる」とする立場が不利だったからであろう。
 第一期と第二期の間で一般的な「敵討」理解に微妙な変化が起こっていることが伺われる。その間にあるのが享保の改革である。法制的な「敵討」概念の成立を、その時期に措定するのは必ずしも無稽の説とは言えまい。さらに敷衍するならば、法制的な「敵討」概念を確立させたのが義士論争である可能性もあるだろう。日本語の「敵討」では気づかれなかった定義の問題が、「復讐」という漢語が用いられたことによって表面化したのではないだろうか。いや、これは先走りしすぎか。
 もとより十分な証拠があって述べているわけではない(正直なところ、現在諸般の事情で十分な史料にあたれていない。『近世武家思想』所収のものだけで間に合わせてしまった)。あくまでも仮説の提示である。御批正たまわれば幸甚である。

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「敵討概念の再検討」をめぐって

 谷口眞子氏の『武士道考』の第四章は「敵討概念の再検討」と題されている。私も「敵討概念の再検討」は必要だと思ってきた。同章第三節に西鶴の『武道伝来記』を取りあげているのも、私の考えていた方法と近い。にも関わらず、氏の所説は私の考えていたのと全く逆の方向に向かっているようだ。私の考える筋道を提示しておく。
 前提となっている「敵討」の概念は、平出鏗二郎氏などが近世後期の法制を基本に定式化したものである。AがBを殺害し、これに対してBの縁者=bがAを殺害する行為。原則として逆縁(目下の者の敵を討つこと)は認められず、又敵(上述の規定でいえばさらにAの縁者=aがbを殺害すること)も認められない。
 少なくとも近世前期に行われた「敵討」について言えば、こうした定義にスッポリはおさまらないという事情がある。「敵討」の代表ともいうべき“赤穂事件”の場合、吉良が浅野を殺した訳ではない、という点が議論になっていた。同様の事情が“浄瑠璃坂の敵討”についても指摘できる。“伊賀越の敵討”は逆縁である。これらは変則であるがゆえに有名になったのかも知れないが、少なくとも同時代人は「敵討」であることに疑問を持ってはいない。つまり、かの定式は近世人の「敵討」概念と一致してはいないのではないか、という疑問が生ずるのである。
 そこで「諸国敵討」の角書を持つ『武道伝来記』の出番となる。元禄時代に生きた井原西鶴という人物は「敵討」をどのようなものとして捉えているか。そこでは彼の作品がどれほど“事実”と離れているかは問題ではないはずである。
 もっとも“看板に偽りあり”で内容が題目とずれている可能性は否定できない。谷口氏が、西鶴が「敵討ではない実力行使」を取りあげた例としているのが、巻五の第三話「不断に心懸の早馬」である。なるほどメインの筋は「敵討」でない椿井民部と綱島判右衛門の果たし合いだが、脇筋として大野笹右衛門の「敵討」が盛り込まれている。なくても構わないような脇筋を入れたところに、西鶴のこだわりを読みとることができまいか。書きたかったのは民部と判右衛門の話であっても、あくまでも「諸国敵討」という作品集として仕上げようとしたのである。そうだとすれば、それ以外の「法制的な意味では敵討でない」ような話柄にこそ、“法制的な意味ではない敵討”の概念が浮かび上がってくるはずである。
 私は今のところ、「闘争の相続」として「敵討」を理解しようとしているのだが、必ずしもうまく説明しきれる訳ではない。しかし法制的な意味での敵討から抜け出すことは、やはり必要だと思われるのである。

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ちょんまげの代言人

 赤穂事件に関する重要な史料に『江赤見聞記』がある。これを『赤穂義士事蹟』のタイトルで出版し世に知らしめたのが、広島の人・岡謙蔵である。出版の経緯については拙稿「『江赤見聞記』について」を参照していただくとして、今日は功績者・岡謙蔵についてである。どういう人物かは不明で広島市議会で議長を務めたことくらいしかわからなかったのだが、たまたま発見したので報告しておこう。
 『日本人物情報大系』という本がある。 版元は皓星社、伝記集・名鑑の類を大量に集めて復刻した叢書で、個人購入には無理があるが、大きな図書館にはあるはずである。何しろ大部なもので調べるのも容易でないが、WEB索引(未完成)を使えばかなり効果が上がる。で、これで岡謙蔵をひくと憲政編2『帝国議会議員候補者列伝』中に記載のあることが確認できる。なお同名の書は国会図書館近代デジタルライブラリーにもあり、序文の執筆者は違うものの(情報大系は植木枝盛、デジタルライブラリーは島田三郎)、内容は同一のようである。
 同書によれば、第一回総選挙に広島県第一区から出馬が予想されていた人物が、広島市新川場町の岡謙蔵である。天保6年(1835)生まれというから、総選挙の明治23年(1890)には数えで56歳。「士族」とあるのは、『赤穂義士事蹟』の奥付で平民になっていたことと整合性を欠くが後考をまつ。また代言人とある。今日でいう弁護士である。
 ちょっと変わった人物だったらしい。「邦内千有余ノ代言人中チョン髷ヲ頂クモノハ岡謙蔵君ヲ措テ他ニ之レアラザルベシ」と書かれている。本人の主張によれば、歴史上髪を結えという命令が出たことはあるが、散髪をしろという命令が出たことはない。いわゆる断髪令は諭告にとどまり強制力のあるものではない。自分は結髪の利点を信ずるので散髪するつもりはない、というのである。そのくせ和服ではなく、フロックコートを常用していた。これも本人の主張では、フロックコートはもと日本の礼服であり、まして政府がフロックコートを礼服と定めたのだから、という。この理屈、正直よくわからないのだが、とにかく独特の理屈屋で変人だったのは間違いなかろう。ちょんまげにフロックコートの代言人である。
 もとよりただの変わり者ではない。つとに志を公共の事に注ぎ、コレラ流行の際は身命をなげうってその撲滅のために奔走した。日本赤十字社広島支部常議員、大日本私立衛生会広島支部常議員、神道広島分局顧問、大日本風俗改良会員、広島用水会社発起人、広島県会市部常置委員、と肩書が列挙されている。地方の名士であり、それなりに人望を集めていたのであろう。
 当選したかどうか、いやそもそも総選挙に出馬したのかどうかも、未確認である。ただ広島市会の議長就任が明治29年であるから、国政進出よりは郷土のために働く道を選んだように思われる。わからないことだらけだが、情報があればお知らせいただきたい、という意味をこめて、ここに紹介しておく。

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人は武士

 「花は桜木、人は武士」は、人口に膾炙したことわざ(慣用句と言った方がいいかな?)であるが、その初出は『仮名手本忠臣蔵』十段目であるらしい。らしい、と言ったのは確実ではないからである。いちおう周辺を調べてみたが、明らかな反証は今のところ目にしていない。
 類似の語句ならこれより早いものを挙げることができる。『忠臣蔵』の先行作、『忠臣金短冊』(享保18)三段目には「花は小桜、人は武士」とある。『ひらかな盛衰記』(元文4)三段目だと「花は三吉野、人は武士」である。どうやら「花はみよしの」の方が古い形であるらしく、近松門左衛門の『蝉丸』(元禄14)第四にも見える。
 「花はみよしの、人は武士」の出典として指摘されるのは、一休禅師の狂歌「人は武士、柱は檜、魚は鯛、小袖は紅梅、花はみよしの」である。字句に多少の相違はあるが、ネット上などでもこれを引いていることが多い(その前に「花は桜木」を付けてしまっているのは、誤解である)。これが一休の真作かというと疑問符はつく。あまり一休ぽくはないような気もするのだが、少なくとも江戸前期にはそのように認識されていた。仮名草紙『尤の草紙』(寛永9)や『続撰夷曲集』(寛文)に一休の作として載っている。(この狂歌の出典は、由井長太郎『西鶴文芸詞章の出典集成』で見つけたもの。それぞれの分野で地道な研究をしている方々に改めて感謝したいと思った)
 そんな訳で、この慣用句の出所については、こんな風に整理できよう。江戸初期に一休の狂歌として伝えられたものから「花はみよしの、人は武士」という言い回しが生まれた。「花は」以下についてはいくつかの表現がとられたようだが、いつしか「桜木」が定着した。そうして、「桜木」が定着した理由として、「仮名手本忠臣蔵」の影響を挙げるのは、確かとはいえないが、あり得ることとは言えるだろう。

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『世継曽我』にみる敵討観

 前回に引き続き、近松から話柄。
 『花山院后諍』は近松の真作かどうか疑わしいところもある。確実に近松の作とされるもののうち最も古いのは『世継曽我』(天和3=1683)だという。三段目道行の「恋は曲者」が流行語になったという話題作だが、この中に元禄人の敵討観を理解する手がかりがある。

 本編は、兄弟の仇討成就の後から始まる。富士の裾野の巻狩はてて、新開荒四郎が奉行となって面々の獲物を記録した時に、御所五郎丸(元服して荒井藤太と改名)が曽我五郎生け捕りを記帳した。これを聞いていた朝比奈義秀、立派な武士を畜生同然に扱うとは何事と腹を立て「曽我が敵は五郎丸。重ねて曽我の所縁あらば、此の朝比奈が後見し、必ず狙い討たすべし。新開とても危うし」と脅しつける。のみならず曽我の従者、鬼王・団三郎兄弟にこの由を知らせ、一人は曽我へ帰り、一人は鎌倉に戻って荒井・新開を討てと唆すのである。
 さて、これを聞いた二人はどちらが鎌倉へ行くかで論争を始める。
「故郷の事は内証づく、眼前主人の敵を討たで侍が立つべきか」
「これ兄者人、左様の事を知り乍ら我を故郷へ帰れとは・・曽我殿の下人こそ兄は心健気にて主人の敵を討ちけれど、弟は臆病者にて逃げ帰りしと人に笑はせん巧よな」
「それは以ては同じ事・・弟は心剛なれども兄は腰が抜けたりと世上の人に笑はれんは、御辺も同じ恥ならめ」
互いに言いつのってついに喧嘩別れをしてしまうのである。
 その後兄弟は和解する。荒井藤太・新開荒四郎の両名は、曽我十郎の忘れ形見・祐若を人質に取ろうとして、虎・少将にたばかられ箱の中に閉じこめられる。これを手助けしたのが朝比奈で、逃げられぬように大石で蓋をしたところ、藤太の箱はつぶれて圧死。荒四郎は鎌倉へ連れて行かれるが、虎・少将の願いで命だけは助けられる。祐若は父と叔父の名をあわせ曽我十郎五郎祐時と名乗り、旧領が安堵されてめでたしめでたし・・・。

 いくつか問題を考えてみよう。なぜ荒井藤太・新開荒四郎が敵なのか。五郎を生け捕った五郎丸(荒井藤太)が敵なら、十郎を討った仁田四郎は敵じゃないのか。このあたり、現代人の敵討観では理解しづらいところがある。朝比奈が問題にしているのは死後の兄弟を侮辱した言動であり、それに対する報復を兄弟にかわってする人間を必要とした。それは朝比奈本人ではできない。有資格者は兄弟の妻子や家臣で、朝比奈が選んだのは鬼王・団三郎だったのである。
 これを受けた兄弟の反応も興味深い。主君の敵を討つのは当然だという感覚がひとつ。そしてそれを後押ししているのが「世間」の目である。ただし、兄弟が争ったのは、世間体を気にして譲らなかったためでもあるまい。自分が敵討ちをしたい、それを主張するために「世間」を利用しているに過ぎない。
 もう一つ、仇討ちの結果が曽我家再興に結びついていることにも注意をしたい。敵討と相続との連続性の問題は、単純ではないけれど重要だろう。原作『曽我物語』にはこういうハッピーエンドは用意されていない。しかし近松はこれを必要と考えた。そういえば『碁盤太平記』も塩冶家再興で幕を閉じていた。
 赤穂事件の当事者、その事件を眺めた人々が敵討をどう考えているか。その時に、意識の表か裏かに『世継曽我』や類似の作品群が影響を与えていないだろうか。こういう視点は、別に目新しいものではないのだけれど、案外きちんと検証はされていないように思われる。

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『花山院后諍』にみる喧嘩両成敗観

 以前、赤穂事件当時の喧嘩両成敗法について考察したことがある(「喧嘩両成敗法の元禄」および「浅野刃傷事件と喧嘩両成敗法」)。趣旨としては、実定法としての喧嘩両成敗規定は元禄期には後退する傾向にあったこと、赤穂事件の当事者は「喧嘩両成敗」を要求していた訳ではなかったこと、などであった。当面その見解を修正する必要には迫られていないのだが、元禄人の喧嘩両成敗に関する感覚を理解する手がかりに気付いたので、追加しておく。

 近松門左衛門の処女作と目される『花山院后諍』は、平安時代の宮中を舞台としたものである。君寵を失った藤壺の女御は、ライバル弘徽殿の女御を暗殺することを平正度に依頼する。正度は早見七郎を刺客として送り込むが、警固に当たっていた渡辺綱に討たれてしまう。当然ながら正度の関与が疑われ、綱の主人・源頼光と関白の前で対決することになる。正度は綱と早見の私闘だと言い張り、綱の処刑を要求する。重要なのはこの時の正度の台詞「端喧嘩は両成敗とは定まらずや」である。さらに正度は屋敷に戻り「早見を討たせつゝ相手をも取らせずして、片手打ちなる御仕置也」と言って、頼光と一戦に望む準備をするのである。
 もとより史実ではない。平安時代に喧嘩両成敗をいうとは思えないが、近世人の法感覚を理解する参考にはなるだろう。悪人の台詞ではあるが、殿中での喧嘩が「両成敗」だという発言が全く説得力のないものであるならば、正度はこう言うまい。そして(自分の非は確かに知りながら)一方が死んで他方がそのままでは不公平だという感覚が、正度にあるのである。これがそのまま浅野事件に適用できる訳ではもちろんないが、近松の筆が同時代の法感覚を反映したものだとすれば、事件を理解する役には立つであろう。
 この争いは関白の裁定でうやむやになる。これも現代人には納得しがたい部分である。「深く事を糺されず都の騒動鎮めさせ給ふ、関白公の御心底有難かりける次第なり」というのは、いわば“大岡裁き”であるけれど、正義の実現という観点からは問題があろう。為政者に期待されているのは何か。法とは、裁判とは何なのか。近世人の感覚を理解するには、まだまだ勉強が必要なようだ。

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武士は只死ぬると云道を

 山本博文氏の新著『日本史の一級史料』(光文社新書)は、とても面白い本である。「歴史」が「史料」から紡ぎ出されることを、自己の体験を中心に(時に失敗談をまじえながら)語ってくれる。歴史学を志す人、歴史に興味のある人、すべてに読んでいただきたいと思う。
 ではあるが、私は本書の大筋とは関係の薄い一点に引っかかってしまった。それは、第1章「有名時代劇のもと史料」のなかにある、宮本武蔵の『五輪書』にかかわる次の記述である。

 しかし、「只死ぬると云う道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也」というのは、佐賀藩士山本常朝の言葉である『葉隠』を下敷きにしたような言い方です。武蔵の時代には、まだ武士らしい武士が大勢存在した時代であり、武士道の本質が死ぬことだというような言説が成立していたとは思えません。つまり、『五輪書』の言い方は、十七世紀末ならばわかるけれども、十七世紀中頃のものとは思えないのです。

 念のために言っておくが、『五輪書』に後人の手が入っている可能性を否定するわけではない。「武士道の本質が死ぬことだというような言説」が17世紀中頃には存在しないのか、という問題である。
 私の念頭にあるのは、たとえば「加藤清正七箇条」である。その第七条に「武士の家に生れてよりは太刀かたなをとつて死る道本意なり」というのは「武士道の本質が死ぬことだというような言説」であろう。もとよりこの「七箇条」が清正の手になるものかどうかは保証の限りでない。「七箇条」は『清正記』に収められているのだが、『続撰清正記』の編者はこれに否定的である。しかし、もとの『清正記』の出版された寛文初年の段階で、これが加藤清正の遺訓だということが信じられるような状況があったのは事実であろう。
 あるいは藤堂高虎遺訓の第一条「寝屋を出るより其日を死番と可得心」などというのもある。『葉隠』よりは『武道初心集』に印象は近いけれど、これも「武士道の本質が死ぬことだというような言説」に数えていいだろう。これまたテキスト問題があって、高虎本人の言葉でない可能性がある。しかし、寛文ごろには高虎の遺訓と考えられるようになっていたと思われる。
 要するに、17世紀も中葉になれば「武士道の本質が死ぬことだというような言説」はそれほど珍しくないのではあるまいか。このあたりの認識は、『葉隠』に対する評価の問題とも関わっている。「武士道と云は死事と見付たり」という『葉隠』の言葉は、修辞的な卓抜さは認められるとしても、考え方としてはそれほど突飛なものではないような気がするのである。

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「かたき」の概念

 「敵討ち」って英語で何というのだろう、と考えてみた。こんなときWEB上の和英辞典は便利なもので、サッと引ける。そうすると松坂投手が流行語にしたrevengeとか、vengeanceという単語が出てきた。これを逆に英和辞典で引くと、仕返し・復讐と出てくる。確かに間違いではないのだが、復讐・仕返しというのと敵討ちというのは微妙にずれているような気がしないこともない。
 ところで私が私用したのはnifty辞書(powered by三省堂)だが、「敵討ち」でひいた時の見出し語は「敵(かたき)」で、これに相当する単語としてはenemy、foeが出てきていた。ただ「かたき」と言った場合には、「親の敵」のような限定された使い方が主になっている。enemyやfoeは「敵(てき)」であっても「敵(かたき)」ではないのではないか。そんなことを考えていて、ふっと気づいた。日本語の「かたき」も元来の意味はenemyだったではないか。国語辞書を見るまでもなく「金が敵の世の中」みたいな言い回しがある。「世の中は金と女が敵なり、どうぞ敵にめぐりあいたい」と続けるのは、「かたき」の両義を活かした文句というべきだろう。
 ただし、「親の敵」とか「敵討ち」という使い方をした場合に、enemyに相当する「かたき」のニュアンスが消える訳でもない。そのあたりが「復讐・仕返し」と「敵討ち」のずれになっているような気がする。
 赤穂事件をめぐって、これが「敵討ち」か否かという議論がある。近世人の多くはこれを「敵討ち」と認定する事に躊躇しなかった。これが「復讐」の要件を備えているかという議論だと、ややこしくなってくる。しかし、大高源五の論証は明快である。
「殿様ごらんしんともござなく上野介殿へごいしゅござ候由にてお切りつけなされたる事にてござ候へば、其の人はまさしくかたきにて候。主人の命をすてられ候程のおいきどをりござ候かたきをあんおんにさしおき申すべきよう、むかしよりもろこし我が朝ともに武士の道にあらぬ事にて候。」
 要するに吉良は浅野の「かたき」=enemyだから討つのである。敵(かたき)を討つから敵討ち、何の不思議があろうか。
 もとより、復讐としての「敵討ち」概念も存在しているし、そんなにはっきりした使い分けができるはずもない。「父の敵」と言った時に"killer of my father"と認識しているのか"enemy of my father"と認識しているのか、明白に弁別などしようもないだろう。しかし、父の“enemy”を討つと言うニュアンスは、闘争を相続するという感覚に近いはずだと思うのである。

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大夫考

 WEB上に記事を書く時、表記に迷うことがしばしばある。人名の「たゆう」などもそのひとつ。「大夫」か「太夫」か、点ひとつのことなのにどうもスッキリしないのである。

 特別な知識ではないが、そもそも江戸時代の氏名は、というあたりから整理を始めないといけない。たとえば大石内蔵助の場合、大石が「氏」で内蔵助が名だがこれは通称。実名(名乗、諱)は良雄である(このよみが「よしたか」か「よしお」かという議論はいま省略)。で、先祖が俵藤太秀郷ということになっているので、本姓が藤原である。大石内蔵助藤原良雄というのがフルネームで、他に可笑という号が知られている。ここでの問題はこの通称である。
 通称は、出自を示す文字(源・平・藤など)、排行(太郎・次郎など)、官途(兵衛だとか丞だとか)などの組み合わせで作られる(ということになっている)。例えば源氏出身で長男だと源太郎、平氏出身で左衛門尉だと平左衛門といった具合である。ちなみに「吉」は橘氏、「喜」は紀氏を示す。また「内」は内舎人の意だそうな。後世には実際に任官がなくても平気で○左衛門や×兵衛、△助などが使われる事になる。
 そこで「たゆう」だが、この分類でいえば官途にあたる。律令制では京職・修理職など職の長官に「大夫」の文字が用いられる(左京大夫など)のだが、残念ながらここから直接につながってはこない。「大夫」の文字は五位任官をしめすもので、本来六位相当の検非違使判官が五位に任官されると大夫判官などと書かれる。源氏で五位になれば源大夫、三男で五位になったら三郎大夫である。実際に叙位がなくても通称にしてしまうこと、他の例に同じ。
 中世に芸人が宮中で芸を披露するような場合、無位無官のままでは入れない、ということで五位相当に扱った。それで芸事の「大夫」ができる。さらに京都の遊女を芸事でランクしたときに上級の者にその称号がつけられた。ただし、遠慮して点を打った「太夫」にしたのだという。だから厳密には「太夫」は遊女の場合だけ、ということになるはず。
 ところが、実際には「太夫」と書かれる場合が非常に多い。前提としては、近世人は用字に無頓着だということがある。大石内蔵助の「すけ」は、本来が内蔵寮の次官の意であるから「助」以外にはありえないはずだが、本人が「介」を使ってたりする。前原伊助も本人に「為助」なんて書かれているんじゃあ、「伊」が正しいなんてとても言えない。はなしを「たゆう」に戻すと、明らかに「大夫」でなければならないケースでも「左京太夫」や「左衛門太夫」などと気軽に書かれている。さあこうなるとどっちが正しいのかわからなくなる。
 周知のとおり九州の「大宰府」は「大」が正しいのだが、あまり頻繁に「太宰府」で書かれるもので、現在の地名は点のある方である。「大夫」が正しいと言い張ったところでみんなが「太夫」と書いている以上「太夫」を正しいとすべきかも知れない。しかし、どうもスッキリしないまま現在に至っている。

 ちなみに文楽の方では役割を「太夫」と書いて、個々の人名は「○○大夫」としている。ただし、そうなったのは戦後のことらしい。歌舞伎は竹本・清元・常磐津とも「太夫」である。

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主君の仇討ちの少ない理由

 「大河兼任」の言葉から、なんとか平安ころの武士が主君の敵を討った先例を探そうとしているのだが、どうもピッタリしたのが見つからない(古代・中世に詳しい方、御教示たまわれば幸甚です)。かわりに、といってはなんだが、主君の仇討ちの少ない理由がなんとなくわかったような気がしてきた。要するに、そんなシチュエーションがあまりないのだ。
 合戦の中で主君が討ち死にするような場合、仇討ちをする候補者になるような武士はまず間違いなく運命を共にする。間違って生き残ったらそれこそ恥辱なのだ。佐伯経範(『今昔物語集』25)や樋口兼光(『平家物語』)の行動を見れば、明らか。まあ樋口が義経の首をとるような戦ができたら「敵討」にいれても貰えるだろうが、大将の討たれた負け戦ではほとんど起こりえない。死地に飛び込むようなやり方は「敵討」よりは「殉死」に近い。
 そこまで殿様につきあう義理のない家来は、当然敵討ちなど思いもよるまい。気持ちのある武士が死に急ぎもせずに生きながらえるとすれば、先君の遺児を盛り立てようと言うような場合くらいではないか。この場合は、その遺児が親の敵を討ちに罷り出ることになるから、その手助けはするとしても、主君の仇討ちではないだろう。
 と、まあこんな風に考えてみると、主君の仇討ちなどという現象はよほど色んな偶然が重なったレアケースということになる。そんなにピッタリとした例が見つからないのも仕方ないのかも知れない。そういえば、赤穂事件の場合だって本当に敵討ちと言えるのかという論争があった訳で、ピッタリした例ではないとも考えられるだろう。

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雄略天皇

 「大河兼任」「予譲」の続き。
 主君の敵討ちの先例として、中国の予譲では話にならん、日本で探せ、と言われるかも知れない。古代・中世にはあまり強くないので、ぴったりしたのをすぐには思い出せない。史実というには語弊があるが、雄略天皇のケースなどはどうだろうか。
 日本史上最初の敵討ちとされるのが目弱王(『古事記』の表記、『日本書紀』だと眉輪王)である。安康天皇は弟の大長谷王子(のちの雄略天皇)と若日下王を結婚させようと考えた。そこで、若日下王の兄(安康天皇には叔父にあたる)大日下王に縁談をもちかけた。大日下王は承知したのだが、使者にたっていた根臣が結納の品である「押木の玉縵」をネコババして、大日下王を讒言。安康天皇は大日下王を討って、その妻・長田大郎女を皇后にしてしまった。ある日、天皇が皇后に「連れ子の目弱王が成長して、吾が自分の父親を殺したと知ったなら、逆心を起こしはしないか心配だ」と語った。これを聞いていた七歳の目弱王、寝ている天皇の首を切ってしまった。
 日本最初の敵討はここまでだが、そのあとが今回の本筋。目弱王は都夫良意富美(『書紀』だと円大臣)の邸に逃げ込んでしまう。これを知った大長谷王子、兄の黒日子王・白日子王のところに相談に行くのだが、兄たちの腰は重い。「天皇でもあり、兄弟でもあるのに、どうしてそんなにのんびりしているのだ」と怒って、これを殺してしまう。そのうえで兵をおこして都夫良意富美の邸を襲撃し、目弱王ともども討ち取るのである。
 雄略天皇は倭王武に相当するとされ、実在の人物といってよい。とはいえ、この話、もとになることはあったとしても、史実というより説話ととらえた方が賢明ではあろう。そして、説話としてみれば色々な解釈が可能になるだろう。兄でもあるが主君でもある安康天皇の敵討、という解釈も十分成立すると思われる。
 この話、天皇家の特性を捨象してみれば、武士階級成立以前からある日本の敵討習俗を理解する手がかりを提供してくれるものといえよう。安易に同一視する事は避けなければならないが、近世までつながる何かを持っているように思われる。たとえば、目弱王をかばいとおす都夫良意富美の姿勢には、武家屋敷駈込慣行に通底する心性を感じないだろうか。雄略天皇が皇位継承権を得たのを、復讐の事実と関連づけて考えるならば、敵討と相続を連続してとらえようとする立場(これは以前指摘だけしておいてそのままになっている)からは有利な材料となるものと考えられる。
 それにしても、雄略天皇という方は日本の敵討慣行に実に多大な貢献をしている。従兄弟にあたる市辺の忍歯王を殺害しており、その子の顕宗天皇をして復讐の志を起こさしめている。内容は今の話柄と関係ないのでしばらく略すが、父の仇は討たねばならぬという考え方と、天皇を頂点とする秩序とのかねあいが問題になっていることは覚えておきたい。

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予譲

 「大河兼任」の項で、主君の仇討の例をはじめるのだという認識を大河が持っていたという話を書いた。そのときにこれを仇討と認めてよいかという疑問があるとしたのは、いわゆる「仇討」範疇よりは「弔い合戦」に近いものという印象を持ったからである。ただし、山崎の合戦が仇討番付でランクインすることからもわかるように、近世人の感覚でも明瞭に範疇分けをする必要のないものと考えられる。
 しかし、先例がないかというと、これは問題である。江戸時代のたとえば『仮名手本忠臣蔵』の作者なら、中国の先例を容易に指摘できたはずである。そう、「晋の予譲、日本の大星、唐と大和にただ二人」と書いた、あの予譲である。同じ作者が『義経千本桜』では「晋の予譲の例しをひき、衣を裂いて一門の恨みをはらさん」とやっている。近世人にとって予譲の名は親しいものであった。山本周五郎が名編「よじょう」を書いたのも、そういう文化的下敷きがあってのことに相違ない。
 予譲の話は『史記』の「刺客列伝」に見える。しかし、これが近世日本でこれほど流布したのは『小学』が採用したからだと思われる。朱子学では初学の段階で「主君の仇討ちをする忠臣」に出会うカリキュラムになっていたのである。林鳳岡や室鳩巣などの朱子学者が赤穂義士を称揚したのは、偶然ではない。大石らの行動が儒学の精神に則ったものであるという意味でなく、朱子学者が教条主義に走ったという意味でもなく、武士の行動が道学の教科書と(すくなくとも外形的には)一致したという現象を彼らは見たということなのである。

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大河兼任

 五味文彦『源義経』(岩波新書)を読んだ。伝説の誕生や成長にも目配りした面白い伝記であるが、その末尾近くで興味深い記述に出会った。藤原泰衡の死後、家臣の大河兼任が蜂起した時に、主人の敵討ちの例を自分が始めると語ったというのである。「実に『忠臣蔵』につながる主人の敵討ちの風習はここから始まったのである」と五味氏は書いている。

 念のために『吾妻鏡』文治六年(建久元年)正月六日条を確認してみる(岩波文庫)。
「爰に兼任、使者を由利中八維平の許に送りて云ふ『古今の間、六親若しくは夫婦の怨敵に報ずるは、尋常の事なり。未だ主人の敵を討つの例有らず。兼任独り其例を始めんが為に、鎌倉に赴く所なり』者」

 兼任の挙兵を仇討ちと認識してよいかどうかは、問題の残るところであろう。これを仇討ちと認めても、主君の仇討ちが本当に前例のないことかも疑問になる。しかし鎌倉初期にこういう発言がなされ、そして幕府の歴史書に記録されたということの意味は小さくあるまい。敵討ちの歴史を考える時に意識しておいた方がよい事象のひとつである。心覚えのためにここに書いておこう。

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堀内伝右衛門の兄たち

 堀内三盛は医師200石である。200石の医師の生活というのがどんなものかよくわからないが、伝右衛門が生まれた頃の堀内家はかなり苦しかったらしい。後に屋敷を拝領した時に、ボロ屋であることを指摘され「御家中一番のすり切にて、奥に天井も無御座、しふ紙をはり申所にて生れ申たる私故に、親より者過たると存候」と答えている。しかし俗諺に貧乏者の何とやらいうとおり、三盛は子福者であった。
 男の子は4人。ひとりは父の名と地位を継いだ三盛。もうひとりは伝右衛門といっしょに士分に取り立てられた喜左衛門。『旦夕覚書』に内入(隠居名であろう)という名で登場しているのが喜左衛門と思われる。伝右衛門5つの時内入9つというから、4歳年長である。ほかに是安という兄があったが、これは早死にして跡継ぎもなかったようだ。要するに、伝右衛門は四男という計算である。
 ほかに女子(伝右衛門の妹)があったらしいが、詳細は不明である。今後『旦夕覚書』を読むための心覚えに書いておく。

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土之進の死

 旦夕・堀内伝右衛門の結婚は遅かったが、それでも一子・土之進をもうけることができた。ただ、不幸にして元禄13年に早世した。当時伝右衛門は江戸詰で、国許から手紙で知らされたのである。親友の家老・山名十左衛門も「此節忠義の出候所」と激励の伝言をよこしてきた。
 細川家ではほんの一月前、7月21日に世子・与一郎が14歳で亡くなっている(海岸紹珠恵雲院)。余談ながら弟の内記吉利も18歳で他界、跡を継いだのは綱利の甥にあたる宣紀だった。それはともかく、1月おくれで8月16日に堀内土之進が死んだのである。伝右衛門の心中いかばかりか。
 本人の言によれば「恵雲院様の時力を落とし・・・心中にて引くらへ見候に、神以土之進時には万事軽く覚候」というのだが、これはどうだろう。強がりのように感じるのは、現代人の病だろうか。
 藩主・綱利にも聞こし召し、このさき子供を作るのは伝右衛門のためになるまいから養子を持たせよとの御意。伝右衛門はもともと末子で堀内の家名を伝えるものは他にあるから断絶しても構わないと辞退するが、自分の代に取り立てた者の家が断絶するのは不憫だという思いを聞いてはそれ以上否めもしない。
 養子の選定については当初堀内一族からを考えていたのだが、村井源兵衛のアドヴァイスを容れて妻の弟を養子にすることとしたのである。

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堀内妙庵と子どもたち

 『堀内伝右衛門覚書』に、礒貝十郎左衛門の母親や富森助右衛門の母親をほめた文に続けて、細川家にもこれに劣らぬ女傑があったと述べた箇所がある。そこにさりげなく「我等祖母なども同前」と書いているが、彼女についての記述が『旦夕覚書』に見える。
 堀内伝右衛門の祖母・妙庵は、堀内構之助(永蔦雑志「堀内安房守とその周辺」参照のこと)の一人娘であった。幼少の時は鬼松という名で(女の子に鬼松!)ことさら可愛がっていた。十二、三歳ころまでは主君・池田輝政の通行の際に連れて行き、お目見えさせた。輝政も御機嫌で「鬼松出たか、堀出たか」などと戯れていたという。
 構之助の養子の三郎兵衛というのは、この鬼松=妙庵の夫であろう。子供が四人あって、伝右衛門の母になる女子、八右衛門、角之丞(角兵衛、角入)、文左衛門(不白)となる。
 つまり、堀内安房守の系統は伝右衛門の母方だということになる。父・三盛の血統はどうなっているのか、よくわからない。別系の堀内氏なのか、入婿なのか、あるいは一族内で結婚したのだろうか。わかっているのは、堀内一族で最初に細川家に仕えたのが三盛だということである。『旦夕覚書』には「同名中堀内と申せは本老父より初御家に参候」とある。角之丞が細川家に仕えたのが寛永18年(先祖附)、三盛は寛永9年肥後入国の際の宿割に名が見えるから(『綿考輯禄』54)小倉時代には既に臣従していたはずである。恐らくは三盛が三人の義弟を推挙したものと考えられる。

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堀内安房守とその周辺

 堀内伝右衛門の先祖は、同族の提出した先祖附(『続肥後先哲偉蹟』五、堀内坤次条所載)によると、堀内安房守だという。紀州熊野別当の末葉で、新宮城主だった。その弟・半助の子が構之助で、池田三左衛門輝政に仕える。構之助の養子・三郎兵衛の代に、その子角兵衛ともども浪人し、のち角兵衛が寛永18年に細川家に仕えることとなった。
 上述の通り、堀内氏は紀州熊野の神官の出身であるが、戦国期には新宮城主としてかなりの勢力を有していた。織田信長・豊臣秀吉に服属した安房守氏善は、『寛政譜』によれば紀伊新宮を安堵され二万七千石を領していた。関ヶ原では西軍に属したため、所領を失った。紀伊加田村に蟄居した後加藤清正に預けられたらしく(戦後逃走したとの説もある)、元和元年4月10日(一説元和2年4月17日)肥後熊本で没している。享年67(一説64)。
 なかなか波乱の生涯を送った氏善であるが、その直系は旗本として生き残っている。氏善の子・主水氏久は大坂陣で籠城組だったのだが、あの千姫を坂崎出羽守に送り届けた功労により、500石で召し抱えられた。『寛政譜』にこの家の記事があるのはそのためである。
 ただし、ここには安房守弟半助についての記載はない。安房守の弟としては、若狭氏弘という人物が見える。大坂方に属したが、氏久の功に免じて許され追放になったというのが『寛政譜』である。別名を新宮行朝と言い、その後藤堂家に仕えたというが、よくわからない。若狭が半助なのか、他にも弟があったのか、不明である。
 安房守が肥後で没している事は注意しておいてよいだろう。肥後の堀内家と旗本・堀内家の間に交際があったかどうかは今わからない。なお、旗本の方は「ホリノウチ」と読んでいる。

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大木夕岸

 「堀内伝右衛門の縁談」に登場したもう一人の家老・大木舎人について。
 大木舎人兼近、致仕後夕岸と号す。享保2年没だが、享年を68歳とする説に従えば慶安3年(1650)生まれということになる。伝右衛門より5年、山名十左衛門より4年の年少である。『堀内伝右衛門覚書』には、馬のことについて話を聞いた相手として登場する。

 舎人については赤穂事件がらみの逸話がある。浅野刃傷事件のころ、ちょうど江戸勤務を終えて熊本に出発するはずだったが、赤穂で籠城という噂がでたので、病気ということにしてしばらく出発を延期し決着を見届けることにした。そのための指示をしたあと「さりながら」と舎人は続ける。
 「赤穂の籠城は根も葉もない噂であろうよ。赤穂の人間になったつもりで考えてみるに、今籠城して何の益があろう。城を渡して、時節を待ち、相手を討つこそ本望だ。赤穂は小藩だが、人らしい者も10人くらいはあるだろうから、これほどのことは誤るまい。が、まあ、こういう噂が立ったからには聞き捨てにもなるまい」
 ちょっと出来過ぎの感じもないではないが、ともかくそんな逸話である。

 「山名聴水」で書いた決闘に関連して、こんな話もある。
 舎人が江戸家老だったとき、幕府の巡検使が派遣されることになった。ところが、そこで穏やかでない噂。山名十左衛門に討たれた藤田の2子が、巡検使の家来になって熊本に潜入し山名を討とうとしているらしい。で、これを聞きつけた舎人は病気だと居間にこもってしまった。
 家来達も様子がわからないのだが、どうやら書き物をしている様子。八つ半頃、というから午後3時くらいだろう、家司の宇田弥二兵衛を呼んでかねて昵懇の旗本某に使いを出せという。使者が手紙を持参すると、ほどなく某が来訪。家来も遠ざけて密談する。その日は帰って、翌朝また来る。料理を出してもてなす。そんなこんなで出仕せぬまま。実の病気とも思われず、みなみな気遣っていると、十日ほどしてまた宇田を呼び、「今日は心祝いじゃ。そちも喜べ。訳は後で話すから、盃・料理の支度をいたせ」という。
 やがて舎人が宇田に話した内容。「実は旗本某殿を通じ、ひそかにある老中に願書を提出していたのだ。もしその願いが叶わなければ、宇田よ、そのほうに人数をつけて巡検様の行列を襲撃させるつもりだった。そうなればそちは天下の罪人となり、わしも家来の不調法のために腹を切らねばならぬ。その覚悟で今日までまいったが、先刻の留守居回状には『御巡検衆、今度諸国へ下候に、敵持たる者など堅く召し連れ申さぬように念を入れ吟味遂ぐべし』云々とあり、書付の願いの通りなった。それで、そなたもわしも命拾い。御存知もなきことながら殿へも御安堵、かたがたもっての心祝いじゃ。」

 山名十左衛門が血気にはやる武闘派とすれば、大木舎人は冷静沈着な知謀派と言えようか。とは言え、巡検使襲撃も辞さぬ覚悟となれば、こっちの方がはるかに危険かも知れない。
 目のよるところに玉、というか、類は友を呼ぶ、というか。我等が硬骨漢・堀内伝右衛門の周囲の人物は、一癖も二癖もあるのである。

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山名聴水

 前回「堀内伝右衛門の縁談」に登場した二人の家老、山名十左衛門と大木舎人も一廉の人物であったらしい。いずれも『続肥後先哲偉蹟』に記載がある。

 まず山名十左衛門だが、名は重澄、致仕後聴水と号した。享保6年(1721)に76歳で亡くなっているので正保3年(1646)生まれという計算になる(堀内伝右衛門の一歳下)。細川幽斎の実弟を先祖にもつ名門で、兄の死でいったん断絶したものの、寛文5年に新知1000石で召し出され、延宝8年に家老に就任、5000石まで加増され、享保元年に隠居するまで勤め上げた。
 まだ家老に就任する前のこと、延宝元年(1673)だから28歳の時である。藤田助之進と前川勘右衛門が不和となり、双方ともに浪人ということになった。藤田は熊本退去に際して前川に北の関というところで果たし合いをしようと言ってきた。山名十左衛門は前川の一類という事でこれに助太刀した。手傷一カ所負ったものの藤田父子を討ち取ったのである。
 この一件、私闘ではあるが、出世の邪魔にはならなかったどころか、後に北関を通った綱利が「天下静謐の時節、家老職に其方を持候儀、世上希有之事と存候」と感状を発しているように、高く評価された。元禄の世に果たし合いの経験のある家老など、そうはいるまい。腕に覚えもあっただろうし、それ以上に、頼まれたらいやと言わない侠気の持ち主であったろう。堀内伝右衛門と家格を超えた友人づきあいがあったのも宜なるかなと思われる。

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堀内伝右衛門の縁談

 御預け中の浅野家旧臣に親身に世話をした事で知られる肥後藩士・堀内伝右衛門には、その時の記録である『堀内伝右衛門覚書』のほかに、『旦夕覚書』という書き物を遺している。『肥後文献叢書』に収められているので手軽に読む事ができるのだが、これがなかなか面白い。

 若い時の話である。伝右衛門は家老の舎人(大木だろうか?)・山名十左衛門と親しくしていたのだが、その舎人のところへ重臣・小笠原備前が伝右衛門の縁談を持ち込んできた。相手は細川家家老・有吉四郎右衛門の老臣・菅次太夫の妹である。菅は陪臣とはいえ有吉の名字を許されるほどの家柄だから、つりあわぬということはない。話の出所は有吉で、話がまとまれば「四郎右衛門上下のぬき所にも致度心」というのだから、有吉家との縁組みと言ってもいいほどの見込まれかたなのである。この話、舎人から叔父・角之丞を通じて母のところに伝えられた。その時は伝右衛門留守にしていたので、帰宅してから母に聞かされたのである。
「母上はどう思われる?」
「私は女のことでよくわからぬから、 『角之丞どう思うかの?』と聞いてみました。
 角之丞は『私も良いとは思えないのだが、舎人殿のお頼みゆえ姉に伝えましょうと言ってきました。四郎右衛門殿が十左衛門殿に頼むはずだ、と舎人殿はおっしゃっていましたから、そうなら両御家老が伝右衛門に目をかけての縁談ということになりますから、お断りもなりかねるでしょう。舎人殿は江戸出立前で返事を急いでおいでですから、伝右衛門が帰ったら伝えて下さい』と言っていました。
 ほんに気遣いな事じゃ。文左衛門(もう一人の叔父?)にも相談してくれるように角之丞には言ったのだが・・・」
などと話をしているところへ、十左衛門から伝右衛門を呼びに来る。
「私はしらぬことじゃが、両御家老様の御肝煎ではいやといわれまいから、よくよく分別して下され」
「いやいや少しもお気遣いなされますな。御両人とも御心安く言って下さっているので、私の思うようにいたします。角おじが参られたら舎人殿へもじかに参ってお話ししますからとお伝え下さい」と言って出発する。

 場面変わって山名十左衛門の屋敷。
 十左衛門、笑いながら「何か変わった事はなかったか」という。
「先刻、舎人殿から角之丞を通じて母へ難題をふっかけられました」
「こちらへも先ほど四郎右衛門殿がおいでになってな、こうこうかよう、舎人殿へは備前から頼んだそうだ。これはまあ一段の事」と、あたかも賛成するような口ぶり。
 伝右衛門「御誓言が承りたい」という。
 対して十左衛門は「いや誓言には及ぶまい」と応ずる。
「私には何とも合点が参りません。私が舎人殿やお手前様と御懇意願っておりますことは太守様も御存知のはず。御両所様に何かの筋目があるというわけではありませぬが、前髪のころより御馬屋で毎度お目にかかって以来の事です。その後お二人様には重職に上られましたので、以前のことを知らない家中のなかには軽薄で取り入っているように言う者もありますが、夏の川狩・冬の鴨狩の拝領物のあるたびにお二人様にかわるがわるお呼ばれして参りました事は、知らぬ者もありません。この縁組みを承知したらば、二度が二度とも四郎右衛門殿へ参らねばならなくなうことを思ってみても下さい。なにとぞ、なにとぞよろしきようにおっしゃって下さい」
 舎人や十左衛門とは言ってみれば心の交際。家老に取り入るへつらい武士と一列に見て下さるな、というのが伝右衛門の気持ちである。これには十左衛門も心を動かされ「ともかく舎人に行って話してみよ。私も舎人と相談してみよう」というので、そのまま舎人を訪ねる。

 場面変わって舎人の屋敷。
「何と、何と。御母堂の返事を角之丞が持ってくるのを待ちかねていたぞ。さ、これへ、これへ」
「さてもさても迷惑な儀を十左衛門殿が申されますのでじかに参上致しました」
 これには舎人ちょっと面食らって「何と」というので、伝右衛門側に寄り
「十左衛門殿にもこれこれでお断り下さいとお願い致しましたのに、お手前様でじかに承るようにと言われたので参りました」という。
「十左にいったという話だが、二度が二度とも四郎右に行けばよいではないか。十左へ参らずとも少しも苦しからず」
「いや御両所様はそれでよろしくても、筋目で参りますのはこれまでお二人様に参っていた私の心と違います。四郎右衛門殿へ参りますのは迷惑千万。家中上下の侍が四郎右衛門殿への出入りを求めておるようです。そのことを十左衛門殿にも申し上げました」
「いかにも家中での評判を気にするのは、殿のお耳にも達するかという懸念があるのであろう。貴殿の考えは我等から残らず申し上げよう」
「いや殿様はそうでも家中一同に言う事はできますまい」と押し問答。結局結論は出ずじまいだった。
帰り際に舎人は「江戸に出立しなければならぬが、このことのらちがあくまでは出発しないから毎日来るように」といい、伝右衛門も「明日参ります」といって帰っていった。

 ところが、その後伝右衛門一向に舎人の所へ行かない。そればかりか角之丞や文左衛門とも顔を合わさぬように気を付けている。というのは、どうするか決まっていない事なら談合するが、これは自分一人で結論が出ている事である。家老の肝煎を断るのも、こちらに言い分のあることであるから、家老ともあろう人が無理強いするものではない、と考えたからである。
 しばらくして角之丞が舎人の使者としてやってきた。
「舎人殿は『伝右衛門と直に話したが、なるほど伝右衛門の申し分はもっともに思われるので、この縁組みはとりやめる。外によいのがあれば肝煎りするので心やすくおれ』との懇ろなお言葉であったぞ。急ぎ礼に参れ」
 そこで、伝右衛門また舎人の所へ。
「さてさて忝なく存じます。それから、御両所様の肝煎に背いた縁組みは遠慮せよと言う者がありますが、私はそう思いませんので、今後ともかりにお気に召しません縁組みでも私の心で決めますので、さよう思し召し下さい」
「いや、それはならんぞ」
「これは御無理をおっしゃる。心のままに妻を求めるのまでおのおの様へ申し上げるのは憚りと存じますので、きっと自分で決め申す」と言って笑いながら帰ったのである。

 家老の肝煎りの縁談を断ったばかりか、以後勝手にすると宣言までしてしまう。伝右衛門、若い頃から相当のへそ曲がり、いや快男児であったようだ。

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綱吉の身長

 前回紹介した篠田氏の『徳川将軍家15代のカルテ』の中で綱吉の低身長説に言及されていた。氏は低身長説を肯定した上で、その原因を考察されている。たいへん興味深くはあるのだが、こういう点にはやはり慎重にならざるを得ない。
 綱吉の身長が異様に低かったという根拠は、三河大樹寺の歴代将軍の位牌である。生前の身長にあわせたと伝えられるこの位牌、最も低いのが綱吉のもので約124cmだという。文字に書かれた史料だけが重要で、伝承などには何の価値もないのだ、というような主張をするつもりはない。しかし、それだけが根拠になるような場合は安易に飛びつくべきではないだろう。
 綱吉の場合、儒学の講義をしたり能舞台に立ったり、きわめて露出の多い将軍である。人並みはずれた低身長であれば、当然隠しおおせるものではない。そのうえ(当否はともかく)あることないこと書かれている将軍でもある。異様な小ささであったなら当然面白おかしく書き立てた記事が残っていて然るべきだが、そうしたものがあるという話は寡聞にしてきかない。
 いや、むしろ逆の証言もある。アルベルト・ブレヴィンクというオランダ人は、将軍就職前の綱吉の「立派な風貌」に強い印象を受けた、という(原典を確認していないが、ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉』中公新書による)。もちろん身長が低くても風貌が立派であることはあるが、病的に身長が低かったとすれば初対面の外国人に強い印象を与えるのは風貌の立派さではあるまい。綱吉低身長説に乗る気はしない。
 篠田氏の本はとても面白い。それだけに、影響は大きいだろう。綱吉低身長説が事実のように流布していくとすれば、問題である。将軍の身長にあわせた位牌という伝承の方を、慎重に吟味する必要があるはずだ、と思うのだ。

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