赤穂事件・忠臣蔵

秋田県公文書館の『岡本元朝日記』

 吉良上野介の人物について記載があるということで最近よく取り上げられるものに岡本元朝日記がある。岡本は秋田佐竹家の家老だった人物で、日記は秋田県公文書館の所蔵。これがよく知られるようになったのは、昨年12月に同館の『古文書倶楽部』20号で紹介されてからのことらしい。恥ずかしながら未見であったが、館のサイトにPDF文書があることに気がついた。
 http://www.pref.akita.lg.jp/www/contents/1144808186646/files/komonjokurabu020.pdf

 なかなか興味深い。記事は江戸大番頭・渋江十兵衛の書状(元禄14年3月17日付、同24日着)の要約である。注目されているのは、吉良について「日頃かくれなきおうへい人」という噂、ことに「物ヲ方々よりこい取」という強欲ぶりである。もっともせびり取る品物が雪舟の三幅対だったりするから、強欲というよりも強烈な芸術嗜好だったかも知れない。
 それ以上に面白いのが刃傷の「実況中継」である。渋江情報では浅野に切りつけられた吉良が刀に手をかけ「何をするや」と取って返し反撃しようとしたのを、畠山民部らが取り押さえ「内匠殿は乱心だから」となだめた、とある。これでドラマを作ったら大ブーイングだろうな。もちろん梶川与惣兵衛の証言とも食い違い、事実だと認められる訳ではない。もしこれが事実だったら、浅野だけ切腹では大誤審だ。ただ、こういうイメージで語られたのは、同時代の武士たちがこの事件を「殿中の喧嘩」と認識していたことの表れだろうし、何となく浅野びいきの風潮が生まれてくる原因にもなったのではないだろうか。
 ここで紹介されているのは、浅野刃傷事件についての情報だけだが、翌年12月の討ち入りについては何の記載もないのだろうか。秋田には、宝井其角から情報を得た梅津半右衛門もいたはずである。二人で敵討論をかわした様子なんか記されていたら面白いだろう。
 ともかくも、こうした貴重な資料がWEB上で公開されていることはまことに欣快である。さらに言えば岡本日記そのものも翻刻されたり、WEB公開されたら嬉しいのであるが・・・。

(追記)
 同館の『古文書倶楽部』22号には、『梅津忠昭日記』に記された浅野刃傷事件が紹介されている。
 http://www.pref.akita.lg.jp/www/contents/1144808186646/files/komonjokurabu022.pdf
出典は『秋田史談会記事』で、明治44年の史談会例会に郷土史家の東山多三郎が持ってきたものだという。事件についての情報は、『岡本日記』に比べれば正確で、そのぶんつまらないとも言える。しかし、この梅津忠昭、まさに其雫・梅津半右衛門その人ですよね?うーん、これも討ち入りについての記述を見てみたい。
 『倶楽部』によれば現在確認できるのは抄本で、原本は行方不明の由。無事見つかることを祈ってやまないものであります。

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菅谷半之丞の手紙

 菅谷半之丞が主家改易後三次にいたことは、本人の書状から知られる。その書状は「早水家文書」のうちにあり、古くは『赤穂義士史料』で、最近では赤穂市立歴史博物館資料集『早水家文書(一)』(以下『早水』)に翻刻されている。『早水』の収める半之丞の書状を概観しておこう。
 同書にある半之丞の書状は6通、いずれも早水藤左衛門宛(ただし後述の通り、署名・宛名を欠くものが一通ある)。23号(7月20日付)、24号(ただし署名・宛名欠、7月20日付)、28号(正月10日付)、37号(4月6日付)、39号(4月17日付)、58号(月欠26日付)である。うち、37・39・58の三通は事件とは関係ない。ヒマだったら泊まりに来い(58号)とか、刀を鑑定に出してもらうように頼む(39号)とか、親しい間柄であったことは証明できる。薬代の支払いについて連絡している(37号)のは、早水の父親の看病(後述)に関わるのかも知れない。違うような気もするが、決め手がないので存疑としておこう。
 23号は、内容から見て元禄14年の7月20日のもの。早水が6月28日に大坂から、7月4日に京都から、2通の書状が送られたのに対する返書である。菅谷はこの時点では赤穂にいた。幕府代官の手代・松嶋条右衛門との交際や、金策をしているらしい様子が伺われ、興味深いものであるが、その検討は次の機会に譲ろう。ここでは「当廿二三日には爰元立申、足守へ立寄、三好へ帰り申事にて御座候」とあるのに注目しておこう。「三よしより可得御意候」とか「切々三よし江預御状度奉存候」ともあり、この後三次に行く予定だったことは間違いない。
 28号は翌15年の正月10日付。また赤穂に来ているようで、早水の父・四郎兵衛の病気について報告している。快方に向かっていて喜ばしいのだが、人参代が三両ほどになり、何かにつけて銭のいることばかりだと愚痴をこぼしている。しかも、そのうえ藤左衛門は送金を依頼しており、ここでも何とか工面するという。交際の親密さを証しているのだが、赤穂にとどまった旧藩士たちの役割(いわば後方支援)を考える手がかりにもなろう。
 さて、もう一通、23号と同じく7月10日付の24号である。署名を欠くが、筆跡から菅谷と推定しているのは穏当であろう。ただし『赤穂義士史料』も『早水』も元禄14年と推定しているのだが、これはいかがだろうか。24号には「私事、帰り申候而、山科辺へ参度心底ニて御座候。三よしの様子次第登り申事も可有御座候」とある。23号のこれから三次に向かうという予定と整合しない。また「兼而一儀」について気をもみ、江戸の様子も色々取りざたされているが確かなことがわからないと苛立っている、全体の調子も23号文書と同じ時期とは思えない。これは翌15年のものとみるべきであろう。大学左遷にからんであれこれ情報がとびかい、緊迫した状勢のもとで書かれたと考える方が自然なように思われる。

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三次における菅谷半之丞

 講談の義士銘々伝では、菅谷半之丞は大変な美男子ということになっている。そのために継母に懸想され、これをはねつけたばかりに讒言されて、父親から勘当を受けた、という筋。山崎美成『赤穂義士伝一夕話』にあるからそれほど新しいわけではないが、もちろん史実とは言えない。おそらくは全員に伝を付けようとして材料に困り、「愛護若」あたりにヒントを得て創作されたものであろう。
 もうちょっと素性の正しいネタとして、三次に潜伏していたときの話がある。出所は菅茶山の随筆『筆のすさび』で、『日本随筆大成』に収められているが、菅茶山遺芳顕彰会のサイトの中でも読める。昔の本がこういう形でどんどん公開されるとありがたいと思う。ちなみに『筆のすさび』ではこのほかに「大石良雄」「亡国弊政」の二章が赤穂事件関連である。
 さてこの随筆によれば、主家改易後の菅谷某(すなわち我等が半之丞)は備後三次に隠棲したが、片足を引きずり耳も遠い様子で、毎日釣りばかりしていたので、子どもたちの嗤われものになっていた。しかし、半年ほどして三次を発った半之丞、町はずれで会った人は脚も耳も正常なようなので驚いた、という。また、半之丞は伯母の家にいたのだが、酒ばかり飲んで借金もかさんでいたが、三次を発ったあとにはきちんと支払いができるように整理してあったという。なお、ほぼ同内容で頼杏坪に「甲斐庵記」があるらしいが、未見である。
 半之丞が三次にいた事は、本人の書状などからも確認できる(この書状については改めて考えたい)。ただし、伯母ではなくて兄または姉を頼ったものと推測される。障害を装ったとか、酒浸りの借金まみれだったとかは、傍証がなく、にわかには信じがたい。内容は地元に言い伝えられたものであるが(河相周二・考安については未勘、読者の御示教を待つ)、茶山の活躍したのは事件から一世紀後であり、伝説は既に一人歩きをしていたろう。 史実として確定することはできないが、三次では半之丞音頭とともに親しまれている。継母に言い寄られた話ほどは罪がないし、目くじら立てて否定する事もないのかも知れない。

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小野寺十内母の九十寿を賀す

 「伊藤梅宇と『見聞談叢』三則」「並河誠所宛伊藤東涯書状」に続く「古義堂と赤穂義士」シリーズ第3弾。小野寺十内の母親九十歳のおり仁斎・東涯が祝賀の詩を贈ったというのは有名である。どんな詩だか読んでみよう。テキストはいずれもぺりかん社の影印本から。

 まずは仁斎。『古学先生詩集』巻之二、四十丁。

  賀小野寺十内[秀和]母九十寿[庚辰]
母氏年高九十強
無憂無病又無傷
老莱孝思誰能識
膝下猶呼為小郎

 語釈、というほどのこともないけれど「老莱」は古代中国の孝行者。親が年老いたことを感じないように、わざと子供服を着て子供のような振る舞いをしたという。落語の「孝行糖」に登場する由。
 戯訳:おふくろさまは九十すぎて、いまだにぴんぴんしてござる。老莱の孝を、誰が知る。親にしてみりゃまだ坊や。

 続いて東涯。『紹述先生文集』巻之二十八、五丁。

  小野寺氏[秀和字十内]母某氏九十寿[浅野内匠侯京邸官]
羨君官政不遑時
慈母九旬絲髪垂
況復一堂不違養
更無晨夕倚門思

 「倚門」は門によりかかって子の帰郷を待つ親の様子。
 戯訳:公務多忙にしながらも、90の母親髪まで元気。いっしょに暮らしているために、待たせずすむとはうらやましい。

 ううむ、訳してみたもののどうも味わいに乏しいなあ。なにぶん門外漢である。御叱正賜れば幸甚。

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「実」のないはなし

 「永蔦雑志」でしばしば言及しているけれど、国会図書館のサイトにある近代デジタルライブラリーは実に有用かつ面白い。換言すると小ネタの宝庫である。
 たとえば、信夫恕軒の『赤穂義士実談』という本がある。重野安繹『赤穂義士実話』とならぶ、近代の赤穂事件研究の草分けである。恕軒は漢学者だが、日本の歴史にも造詣が深く、かつ話術も巧みだったらしい。この本は講演の速記録だが、随所にくすぐりを入れるなど面白くできている。面白すぎて客観性を欠くなど問題と思われる箇所もあるが、まずまず穏当に史実を概説したものと言える。明治35年に広文堂という書店から出版された(『赤穂義士事典』、松島栄一『忠臣蔵』、宮澤誠一『近代日本と「忠臣蔵」幻想』など)。大ベストセラーだったようで、かなり版を重ねている。私の持っているのは明治43年の第50版である。大量に出たおかげで、現在の古書店での相場もそう高くはない。
 ところが、である。近代デジタルライブラリーには『赤穂義士談』という「実」の字の落ちたものが収められている。明治30年談叢社刊。内容は、というと、どうやら一字一句違わない。つまり、こちらがオリジナルなのである。版元が変わった経緯、改題された事由はわからないが、実は「実」のない談(はなし)の方が本当だったという話である。ほらね、やっぱり小ネタでしょ。

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並河誠所宛伊藤東涯書状

 伊藤源蔵(東涯)が元禄16年正月に並河千左衛門に送った書状がある。小野寺十内との親交や大野九郎兵衛の消息が書かれている、ということは、あちこちで読んだのだが、恥ずかしながら、肝心の本文を見たことがなかった。福本日南『元禄快挙真相録』に抄録はあるのだが、全文を読んだ事がなかったのである。ところが先日、例によって国会図書館の近代デジタルライブラリーを見ている時に杉原夷山『大石良雄』(明43、三芳屋)の中に収められていることを“発見”した。杉原夷山について、現時点であまり多くのことを調べていないのだが、陽明学関連の著述や落款集成などの業績がある文人らしい。さて、問題の書状の全文を紹介するのも意味ないことでもあるまい。

猪日之華簡落手、辱致拝見候。如仰、新年之御祝儀目出度申納候。愈御堅固に被成御越年、珍重存候。手前無相替事、一家平安致加年候。殊に思召被寄、預御祝儀、毎度被掛御心、不浅悦入、辱存候。家翁も宜しく相意得候様にと申付候。
一、長沢・真諸賢切々御出合被成候由、珍重存候。真杉殿は爰元にても御預り事にて、仕進遅滞可仕哉と申、気之毒に存候。
 果然にて、誠に思召被寄、浅野殿旧臣四十七義士之書付、細書に被仰下。加様之書付は、何より辱存候。如仰、小野寺は在京中、能存じたる人にて御座候。此度之働にては、日来近付と申も交遊之面目御座候様存候。先年貴丈と二条通御同伴申候刻に行遇、貴様にも近付之由御咄之人にて候。兼て好人とは存候へ共、加様ほどの義者に御座候とは、不思懸候。無事之時、人之非判は、如某等者は、いらざる事かと存出申候。
 人恒言、今之世は百年以前より人心之儀も無之様に申候。熟存候に、百年前、為織田・豊臣両主、所滅所殺之輩、如北条、如柴田、如斎藤・佐々木、諸侯あまた有之、誠に帯甲百万之家にて候。其内之人、誰か両主を狙ひ申輩御座候哉。総体之事は戦に狎れ候時とは違可申か、加様之事は昔にまさり可申哉。且書置を読候て見候に、是もむかし之武士ならば、冥途に赴く等之如き仏語、必定加り可申に、君父之讐と云証文を引しは、自五倫之筋にたより候様に人心も成り候やと、是又不堪一感候。
 尚期永日之時候。恐惶。拝。

  正月廿五日             伊藤源蔵

 並河千左衛門様                                      

中江・浅井両丈へ御噂ども、何も堅固に御座候。扨旧冬之火事、其元これも承候。爰元にても○○○、拙宅近く暫さわぎ申候。
 尚以浅野殿之事、御料簡も承度候。多野九郎兵衛は、只今仁和寺にて、伴閑セイと申候。先年之伊藤源三之弟にて候。多野のヲヒ五右衛門、伴宗寿と申候、産科之医になり申候。上京に屋札有之。

 文中の下線部は国会図書館の画像では不鮮明だが、内容的に見て間違いないと思って補った。
 簡単に内容を見てみよう。最初(および追伸の冒頭)は事件とは関係ないが、ここから年賀に対する答礼だということがわかる。猪日とあるのは正月三日のことである。長沢は長沢粋庵、中江は中江岷山にあててよいだろうか。真杉・浅井は不明。ただ、どうやら長沢・真杉は並河とともに在江戸、中江・浅井は伊藤一家と同じ在京と見える。宛名の並河千左衛門は並河天民と見なされていることが多いのだが、兄の誠所であろう。当時は掛川井伊家に仕官して江戸にいた。通称は五一が知られているが、『三島市誌』によれば「幼名は弥太郎、長じて正蔵又は千左衛門、後に五一郎と称した」とある。
 江戸にいた並河が、年賀とともに赤穂一件についての詳報を書き送ったようで、何よりかたじけない、と東涯先生大喜びである。ついで小野寺十内との交友を得意げに書き記す。いい人だとは思ったけれど、これほどの義者とは思いもよらなかった、うかつに人物評価などしないようにしよう、とちょっぴり反省も。
 それに続けて、織田・豊臣の時代に主家を滅ぼされた人々(北条、柴田、斎藤はわかるのだが佐々木は?)の誰が信長・秀吉をねらったろう、と言って人心が悪くなったという世間に対する異説をとなえる。ことに討ち入り趣意書に仏語でなく「君父之讐」とあるのを高く評価している(これを聞いたら堀部父子も定めて喜ぶ事だろう!)。
 追伸部に「多野九郎兵衛」についての情報がある。仁和寺あたりで「伴閑セイ」と名乗って暮らしている。伊藤源三の弟という説は他所で見ない。これによって見れば、九郎兵衛は伊藤家から養子に行ったものと見える。五右衛門を九郎兵衛の甥としているのも特徴で、『冷光君伝記』の注に従って弟とすることが多い。源三・九郎兵衛・五右衛門が三兄弟で、五右衛門が源三の養子になったとすれば両方成立するが、あまり根拠のない空想を展開するのは控えておこう。伊藤五右衛門が医者になったという話は大石内蔵助も書いており(小坂為作宛書状、『未刊新集赤穂義士史料』所収)信憑性が高い(ただし、名は伴宗節とある)。

 この書状、日南によれば静岡・柏原学而氏所蔵という。適塾で学んだ医師で、徳川慶喜とも親交のあった人物。とはいえ、百年前の情報である。今も御子孫が持っておられるのだろうか。あるいはどこかの機関が所蔵しているのであろうか。

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伊藤梅宇『見聞談叢』三則

 伊藤梅宇の随筆『見聞談叢』には赤穂事件に関する記述が三件ある。念のため確認しておくと伊藤梅宇(1683-1745)は仁斎の次男、東涯の弟である。残念ながら儒者としての評価は父兄に遠く及ばず、伝わっている著書も日本に関する随筆『見聞談叢』のみであるという。三件はいずれも巻之六所載。岩波文庫本では「小野寺十内」「大野九郎兵衛と其子小堺十助の末路」「大石主税の人品」と標題をつけている。

 小野寺十内の項では「古義堂へも度々入来、先人と念比なり」とあって、仁斎と親しかった様子を伝えている。十内の風貌は長身痩躯、身なりにかまわぬ性質で、あまり勇者というタイプではなかったらしい。江戸へ向かうときに東涯に暇乞いに来た逸話、一挙後東涯が十内の母・妻を訪ねた逸話が載っている。記述は興味深いのだが、「年齢四十余」というのは事実と異なっている(討ち入り時60歳)ほか、討ち入り前に死んでいるはずの母親を生きているように書いているなど、問題点もある。
 大野については「これも先人と近付のすじ」としながらも「不忠の人ゆへ・・・をとづれもなし」と素っ気ない。ただ仁和寺のあたりに住んでいること、名を「閑静」と改めていることなどが、他の史料と符合する。息子(郡右衛門)が小堺十助と改名して日用頭となり、大野の子であると知れて仕事ができなくなって餓死したとある。傍証がないので要注意だが、一説たるを失わないであろう。
 主税については江戸発足前、懇意な町人のところで梅宇自身が会っているという。「色白く甚びれい」でありながら「骨柄たくましき事」尋常ではなかったという。性格は「いふにいわれぬ温而厳なる人」だったという。なかなか捨てがたい記述ではあるが、変名として使っていたという石崎豊之助・大川主馬が他の記録に見えないなど、そのまま信用するのはちょっと問題である。

 全体としていえば、興味深いけれど要注意だということである。大石内蔵助が仁斎の塾で学んでいた時に居眠りをして云々という逸話(『先哲叢談』)について言えば、ほぼ間違いなく虚説だと言えよう。大石本人と古義堂にわずかでも関わりがあれば、梅宇がここに漏らすはずはないからである。

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本居宣長の『赤穂義士伝』

 本居宣長の著作の中に『赤穂義士伝』一巻がある。現物は本居宣長記念館所蔵、翻刻が全集(筑摩書房)第二十巻に収載されている。
 といっても、宣長が赤穂事件の研究をしていた訳ではない。まだ本格的に学問をはじめる前、15歳の時(延享元年9月)樹敬寺で実道和尚が説法のついでに語った内容を筆録したものである。少年・宣長の記憶力抜群であったことを証明するものと、研究者の間では位置づけられている。
 そういう事情で、赤穂事件の史実の解明にはあまり参考にならないのだが、伝説の誕生・成長を考える上では貴重な資料といえるだろう。松阪のような地方都市で、無名の僧侶が無名の少年らに語った赤穂義士の物語の速記録である。筆記者が後に高名な学者になったにすぎない。しかも年次が延享元年(1744)、事件から約40年後、「仮名手本忠臣蔵」初演(1748)の少し前である。「仮名手本忠臣蔵」の作者たちが聞いていたであろう義士の物語を、推測する手がかりを提供してくれるのではないか。
 実道和尚の種本は「大石ノしゆかん」というものだったらしい。「大石手簡」だろうという全集編者の説は当然として、具体的にどういうものだったかは判然としない。内容から見て、奇説は少なく、まじめな実録系統の書物だったのであろう。

 少し気づいた点をあげてみよう。
 刃傷の原因については、賄賂・畳替・装束違いが出ている。これは「義士伝」の主流にして、映像作品でも大体漏らさぬところ。日本人の赤穂事件認識には「仮名手本」の影響の大きかった事が言われるのではあるが、『太平記』の世界から顔世御前を持ってきた「忠臣蔵」の世界の方が孤立している。
 刃傷の後、使者は「ハヤ馬」で向かっている。やはり江戸時代には早馬だという認識が一般的だった。
 浅野の切腹では辞世も片岡主従の別れも登場しない。都の錦やその系列の作品は、実道和尚には影響を与えていないようである。かわりに家臣一同が障子をへだてて対面を望んでかなえられないという場面になっていて、「仮名手本」が似た状況を設定しているのは興味深い。長矩が障子の向こうの家臣に聞こえるように上野介への恨みを述べて死んでいくというのも変わっている。
 不思議なことに、寺坂吉右衛門をめぐる話柄が登場しない。かわりにかなりクローズアップされるのが愛妾おかるの存在で、かなり積極的に関与している。おかる勘平は「仮名手本」のオリジナルだが、その前提に肥大したおかる伝説が存在したことは、注意しておいてよいと思う。

 まだまだ読み込めば興味深い話柄が見つかりそうではある。ちょっと気にとめておきたい物である。

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瀬尾孫左衛門は逃亡したのか(2)

 前回に続いて、瀬尾孫左衛門が逃亡したのでない可能性をかんがえてみたい。仮に逃亡したのではないとした場合、重大な矛盾がおこるだろうか。
 大石の発想からして、同志の資格をかなり厳密に浅野家直臣の士分と考えていた傾向がある。寺井玄渓の参加を謝絶した件、大石無人の件、寺坂吉右衛門問題、近松勘六小者甚三郎の件などをつなげて考えてみれば、瀬尾の参加を認めなかったとしてもさほど不思議はない。恵光らにあてた書状で瀬尾が立ち退いた事にふれ「拙者外聞と申し死後までも人口喜悦のところ是非なき次第にて候」などと書いているが、それが本心ならば室井左六・加瀬村幸七を参加させてもよかったはずである。そうしなかったのは、参加させない方が本意だったからに違いない。
 瀬尾の逃亡を非難している史料が見られるが、これは上述の通り寺坂に対するものと共通している。討ち入りに参加した寺坂と、そうでない瀬尾を同様に扱うのは不当だという意見はありうるだろう。同じく不参加の左六・幸七については温情ある言葉を残しているのに、瀬尾に対しては冷たいのは脱走の証拠だと考えることもできない訳ではない。
 しかし見方を変えてみれば、瀬尾の場合には左六・幸七よりも寺坂に近いものがあったという可能性もあるように思われる。浅野家旧臣の義挙は、犯罪でもあった。寺坂を非難する言葉は、彼を擁護する立場から発せられたのではなかったか。そうだとすれば瀬尾(および矢野伊助)についても同様の事情があり得るのではないか。
 直接の証拠はないので、あくまでも可能性の検証のための仮説だが、たとえば寺坂の逃走を幇助する任務を帯びていたというのはどうだろう。普通に考えて、討ち入りをした寺坂が単独で逃避行を開始したとすれば、相当に大きな困難が予想される。瀬尾・矢野がそのサポート役を命ぜられたとしても不都合はない。瀬尾・寺坂・矢野は実際に討ち入ったメンバーのうちの物頭級以上の幹部(大石・吉田・原)に丁度対応する。3人は私的な密使の役目を負い、討ち入り参加と逃走サポートとを役割分担したかも知れない、のである。当の寺坂の筆記にも瀬尾・矢野が「欠落」と記載されているという問題はあるが、これが書かれたのが元禄16年5月(同書奥付羽田半左衛門・柘植六郎左衛門宛)ということを考えれば、まだ追加処罰がありうる時期で共犯の証拠を残すまいとしたと理解できる。
 傍証となるような表現が、理玖の2月26日付書状にある。休真は江戸へ下りたいと思っているが「ごはつと」でできないのだと言い送っており、これに対して「ゆるがせ」になったら墓所へもおいでなさいと理玖が答えている。「御法度」とは何を指しているだろうか。一般的な法令があるという理由ではなく、一種の手配犯だという認識を持っていることを意味しているのではないか。だからこそ、ほとぼりがさめたら墓参もせよという答えになる。ただの脱走ならその心配は不要である。吉良邸に討ち入った同志と共犯関係にあるという認識が、瀬尾にも理玖にもあるのだと思われる。
 繰り返すようだが、明らかな証拠があってこのようだと主張している訳ではない。ただ、状況証拠を積み重ねればこんなことも考えられるのではないかという問題提起である。御意見など賜れば幸甚これに過ぎるはない。

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瀬尾孫左衛門は逃亡したのか(1)

 大石内蔵助の家臣・瀬尾孫左衛門は、特に願って仇討ちの供を許されたが、平間村の隠れ家を守っているうちに原惣右衛門組の足軽・矢野伊助とともに逃亡したとされている。このことは例えば大石自身が赤穂の恵光・良雪・神護寺にあてた書状(《元禄15年》12月13日付)に明らかに記されており、ほとんど疑う余地はないように思われる。しかしながら、事件後に書かれた大石内蔵助夫人・理玖の書状を見ると、事態はさほど単純でないような気がするのである。

 前回紹介した休真宛の書状(『赤穂義人纂書』所収、元禄16年2月26日)がそれである。休真とは瀬尾のことで、内蔵助以下の切腹を受けて悔やみ状を出した、その返事ということになる。もし脱走が本当ならば、いかに厚顔でも悔やみ状など出せまいし、それに対する理玖女の返事が到底裏切り者に対する態度とは思われない。もちろん、理玖は小山源五左衛門や進藤源四郎ら脱盟幹部組とも親戚づきあいを続けているくらいだから、心が広かったのだということができない訳ではない。しかし、それにしてはあまりにあけひろげに心の内を述べているように思われる。
 『赤穂義士史料』には元禄15年12月27日に理玖が赤穂の神宮寺に出した手紙を載せている。その中に「孫左衛門事ハ偖々心外ナル事ニテ残念ニ存マイラセ候」とある。通常これが孫左衛門の脱盟をさしているとされるのだが、どうだろう。その点を考える前に先を読んでみると「何事モ時節ニテ御座候マゝ、御イサメニテ下サレヘク候」とある。どうやら、12月の下旬(少なくとも27日より2,3日前には瀬尾は赤穂にいて神宮寺と連絡をとっているわけだ。それも相当密接にである。あるいは神宮寺に身を寄せていた可能性すらあるだろう。
 というのは、理玖が休真にあてた書状と同じ2月26日付で、石束家臣口分田茂兵衛が神宮寺に宛てて悔やみへの返書を書いているからである(瀬戸谷晧氏のサイトで紹介されている)。現在のような郵便制度がないのだから、しかるべき使いの者が神宮寺と瀬尾からの手紙を届け、(かなりの確率で)返事を持って帰ったのだと思われる。大石の切腹場所についての誤情報に基づく記述を残したまま書き直さなかった理由として、使者を待たせていて十分な推敲ができなかったのだとすれば、平仄は合う。
 12月の理玖書状には孫左衛門と書かれていた瀬尾は、2月末までに休真と改名している。恐らくは出家したのであり、そうだとすれば神宮寺において剃髪したと考えるのが自然だろう。

 瀬尾の“逐電”は小野寺十内妻あての大石書状(12月10日付け)によれば12月3日のことである。他に6日説(弥三右衛門ら宛横川勘平書状)や12日説(『寺坂信行筆記』)もあるけれど、いずれにしても12月にはいってからのことであるのは間違いない。つまり、どこかに身を潜めたりするのではなく(いずれかに立ち寄ったとしてもせいぜい数日の滞在だったろう)、ほぼまっすぐ赤穂に戻ってきたことになる。
 『赤水郷談』によれば瀬尾は尾崎村の元屋(庄屋?)八十右衛門の兄弟だというから、赤穂に帰ってくるのは当然かも知れない。神宮寺は尾崎にあるのだから、そこと連絡をとるのも異とするにはあたらない。しかし、現在の主人を裏切って逃亡したとするならば、仇討成就の祈祷までしていたというほど主家と関係の深い寺院に現れる(まして身を寄せる)というのは不思議な話である。
 ここで想起したいのは寺坂吉右衛門のケースである。大石らが瀬尾について語っていることと、寺坂について言っていることは、おかしなくらいよく似ている。寺坂の場合は伊藤十郎大夫という善意のおせっかいがいて、嘘がほころんだけれども、それがなければ逃亡で決着していた可能性が高い。瀬尾が何らかの事情ではずれる事を命ぜられたと仮定することは、あながち不可能ではないように思われるのである。

 少なくとも、2月26日付け書状に示された理玖の態度は、そう解した方が自然である。この書状には休真が室井左六といっしょに花岳寺へ参詣したことも書かれている。恵光ほかあて大石書状で、不忠者の瀬尾に対して称揚されていた左六・幸七のかたわれである。理玖ばかりでなく左六もまた瀬尾に隔心なく付き合っているとするならば、関係者には事情が了解されていたという可能性が高くなるだろう。
 12月27日付けの方にかえってみれば、瀬尾の何が理玖にとって「心外」だったのか、神宮寺は瀬尾をどう「イサメ」ることが期待されたのか、本文からは明らかでない。たとえば(あくまで想像であるが)「瀬尾が主命により意に反して列を離れたが一挙の済んだ上は切腹したいと言い張って困っている」と言い送ったのに対し、「やむをえなかったのだからとなだめて下さい」という趣旨の返事をした、としても筋は通るだろう。そうだった、と主張している訳ではない。瀬尾の行動には疑問が残るのではないか、という問題提起をしているだけである。

 blogの1ページとしては長くなりすぎるようだ。次回に続く、ということにしよう。

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大石良雄室石束氏之書

 これも『赤穂義人纂書』に収められる大石内蔵助夫人・理玖女の書状である。前回取り上げた「むらを」宛書状よりもさらに重要な問題を含むものである。
 もちろん写しであるが、奥に「赤穂松本新九郎珍蔵」とあり、赤穂に伝わっていたらしいことが伺われる。差出人は「それん母」、宛名は「休真殿」とあり、これも奥に付された注によれば休真は俗称瀬尾孫左衛門、すなわち特に願って付いてきながら討ち入り前に逃亡したとされている男である。
 日付は2月26日だが、内容から言って元禄16年一党の切腹後すぐに書かれたものである。赤穂にいる休真の方から豊岡の理玖へ悔やみ状を出したようで、それに対する返書という形になっている。情報が混乱していたようで、他の同志は御預け先での切腹だが内蔵助一人は泉岳寺で切腹した、と書いておきながら、手紙を書いているうちに江戸から詳報があったとして訂正している。不体裁であり、相手によっては書き直しもしたのだろうが、家来筋の瀬尾なればいささかぞんざいに扱っている。このあたり、偽作としては手がこみすぎており、史料の信憑性をむしろ高めているといえよう。

 不体裁である分、理玖女の真情をよく伝えているように思われる。切腹を聞いて「ちからおとし」ではあるけれど、結構な取り扱いを受けていることに満足している部分もあり、「まことに本もふ成事」とあきらめはしながらも「心ていのほど御さつし可有之候」とちょっぴり弱音もはいてみたりする。「身のおき所も無、とやかくと心ならずくらし」ているが、時節がくれば「うさつらさかたり申事」もあろうと、率直な気持ちを語っているのである。
 上述の通り、手紙を書いている最中に詳報が来る。悲しみも新たに、介錯人の身分の高かった事(もっとも「ものがしら」は誤報で安場一平は徒士頭)や切腹の手際のみごとさをせめてものことと喜びながらも、「き色すぎれ不申、ふでもとゝのへがた」い有様である。

 この書状は理玖の心事を伝えてくれるという意味で重要なのだが、もうひとつ瀬尾孫左衛門の動向に関しても貴重な示唆を与えてくれる。瀬尾が言われるとおりの裏切り者であったなら、理玖がこれほど打ち解けて心情を明かすだろうか。いつわり者で騙しているとか、改心したとかいう説明もむろん成立はする。しかし、私にはどうもそれでは割り切れないような気がするのである。この件については、項目を改めて考えてみたい。

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青林院答村尾之書

 『赤穂義人纂書』に「大石良雄後室青林院答村尾之書」という書状が載っている。『赤穂義士事典』には「疑問の書」とされているが、内容をみると復讐一件にまつわる記述がなく、一族の動静にかかわることばかりで偽作とも思われない。もちろん「青林院」は「香林院」の間違いだろうし、同様の誤写は他にもあるだろう。恐らくそのために意味のとりづらい箇所も多いのだが、あながち捨てがたいように思われる。
 日付が「二月三日」とあって年次を欠くが、「おるり」が「今年十三」というので、宝永8=正徳元年(1711)のものと知れる。「それん事・・・程なく三年」というのも、吉千代の祖錬が宝永6年に亡くなって三回忌と言うことで計算は合う。そのほか管見の限りで矛盾は見つからない。この時期、香林院(大石妻りく)は豊岡にいた。
 宛先の「むらを」であるが、「玄蕃殿御かくれ候てからは、たよりもふつうにたへ申候」とあるので、内蔵助の従弟、池田玄蕃由勝(宝永元年没)の周辺の女性と思われる。千馬三郎兵衛の子・藤兵衛がりく一家を訪ねてきたので手紙を託したとあり、三郎兵衛の遺児が岡山藩に仕えたという事実と符合する。その「むらを」が久しぶりに文をくれたので、その返事として書かれたのが本書である。

 この書状で顕著なのは、「むらを」の問に答えて一族の様子がかなり詳しく書かれている事である。
 進藤源四郎は山科で「ばんじらくらくとにぎやか」で「ろう人にはすぎ候暮」である。小山源五左衛門も京で牢人、息子の弥六(良邑)が公家方に勤めその弟・十三郎良淳があとを継いだこと(宝永5年)も書かれている。「お百殿にもきんちう方におち奉公」とあるのも、「おゆふどのもひろ島へ有付こたちもでき」「おまん殿もひろしまへ有付こもち」というのも、源五左衛門の娘に関する『系図正纂』の記述とほぼ一致する。すなわちお百(大石孫四郎室)は仁和寺守恕法親王の乳母となり、おゆう(潮田又之丞室)は広島の御牧武大夫信久に再嫁して女子をもうけ(早世)、おまんは芸州白砂村正楽寺恵空に嫁して「男子女子多し」とある。
 「このへ様にとしよりやく」勤める「利生院」とあるのは、大石瀬左衛門母で近衛家に仕えた外山局。「きんちうがた御けらいのうちへ有付」いたという「おしゆんどの」は、瀬左衛門妹で近衛家の臣・進藤長堅に嫁いだ春。「五人のこもち」という「お久」はよくわからないが、進藤源四郎の娘で進藤俊易妻の久だろうか。『外戚枝葉伝』で、4人までは確認できる。「大紗坊」は「大西坊」の誤写と思われる。大西坊覚運は「冬とし江戸へ一山のそうだいにお下り」というのも『系図正纂』と一致する。
 「さとう五左衛門」は不詳。あるいは伊藤五右衛門かとも思うが、これは後考をまつ。「孫左衛門」は大石家の家来・瀬尾孫左衛門で、「名を休山とあらため、いまにきぜうにくらし候よし」、「休真」の誤りか。「三郎兵衛」は同じく大石家の家来構三郎兵衛、「ふふふこどもも無事のよし」、いずれも赤穂にいるのであまり連絡をとっていないのだろうか。
 これが偽書ならこんなに沢山無名の人物を登場させる必要はあるまいし、辻褄も合わなくなりそうなものである。一方、「不義士」一類と依然として親しい親戚づきあいをしている様子が読み取れるのである。以前「『不義士の末路』について」を草したときにも触れた事ではあるが、一族のつながりの強さというものを改めて感じるのである。

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中島隆碩

 「脱盟者の末路」という話題でよく出てくるのが、小山田庄左衛門の名である。
 享保6年(1721)の正月15日というから、討ち入りから18年と1ヶ月経っている。江戸は深川万年町の本道医・中島隆碩が殺害された。犯人は下男の直助という男で、主人の金をくすねて咎められたのを逆恨みしての犯行であった。逃亡し権兵衛と名乗っていた直助だが、やがて露見し、7月26日に鈴ヶ森で磔になっている。いわゆる「直助権兵衛」一件として「大岡政談」でも取り上げられている。この隆碩が実は小山田庄左衛門だった、という。その縁で鶴屋南北は、裏「忠臣蔵」の『東海道四谷怪談』において、伊右衛門とならぶ悪役スターに起用している。しかし、実際のところはどうなのだろう。
 まず「直助権兵衛」一件は実際にあったことである。『享保通鑑』(未完随筆百種)や『月堂見聞集』(随筆大成別巻)、さらには『御触書寛保集成』にまで載っているので、事件そのものは否定できない。こうした材料から、三田村鳶魚も史実と認めて記述している。
 ただし、中島隆碩の「正体」はこれらの史料の語る所ではない。わずかに『享保通鑑』が「元浅野内匠頭殿家来にて」云々という風聞を伝えているのみである。浅野家旧臣という事すら確かではなく、ましてや小山田庄左衛門だという証拠はない。もちろんそうでないと断定する根拠がある訳でもないが、軽々しく事実として扱う訳にはいくまい。
 単純に考えて、隆碩が小山田なら、こんなところで開業しないだろうと思う。もともと定府で江戸には知人も多かったはずの小山田である。しかも、深川万年町は、まだ「同志」だったころに住んでいた本所林町から目と鼻の先である。変名して素性を隠そうとするなら、もうちょっと別の事を考えるはずだ。恐らく中島隆碩を小山田庄左衛門としたのは後人のこじつけである。
 隆碩を小山田にあてた気持ちはわからないでもない。同志の金をくすねて逃げた男、実父・一閑が息子の不参加を恥じて自殺したという話もあり、不忠不孝を重ねたいわば不義士中の不義士である。自らの使用人に殺害されるのも因果応報、いやまことに天網恢々疎にして漏らさずだなあ。
 しかし、である。殺害された結果にとらわれずに考えてみれば、存外成功者に数えられるべきかも知れない。『享保通鑑』によれば「有徳」すなわち裕福であり、美人の上に手跡すぐれ近所の娘達に手習いを教えるような妻があった。人柄も悪くはなかったようで、(療治の腕は大したこともないのに)近所から尊敬されていたという。直助に殺されたのも、手癖の悪い使用人をすぐに突き出したりしなかったため、情け深さが仇になったとも言えよう。武家社会からは逸脱したとしても、そんな生き方をあながち非難できないのではないだろうか。
 とはいえ、隆碩が小山田庄左衛門である可能性は低い。もしそうなら、という仮の話なので念のため。

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もうひとりの大野九郎兵衛

 ウェブ検索すると思わぬ情報に接することがある。
 ためしに「大野九郎兵衛」で検索をかけてみよう。もちろん赤穂浅野家の家老だった知房についての記載が多いのだが、それにまじってこんなサイトにでくわす。
 http://www33.ocn.ne.jp/~kotaro_mil/iyosumi/towninfo/hirota.htm
 「こたろう博物学研究所」では、伊予国内の史跡を紹介している。そのうち広田村総津の立花城跡の記事にその名を見いだす。「橘城 総津村に在り 大野九郎兵衛直周居る大洲秘録には大野九郎兵衛直純とあり 直純は直周の子なるか」(伊豫温故録)
 この大野氏は戦国時代、伊予河野氏に仕えた。中でも有名なのは大除城主・大野直昌(なおしげ)。直純・直周については不分明だが、立花城が親城・大除とともに滅んだとあるから、その一族なのは間違いあるまい。
 問題は赤穂の大野九郎兵衛と関係があるのかどうか、である。伊予大野氏は大伴氏の流れといい、はたしてしからば赤穂の家老だった九郎兵衛が牢人後“伴”氏を名乗っていたことと符合する。しかし、家紋は伊予大野氏が木瓜なのに、赤穂の九郎兵衛が杏葉と、あわない。
 結論からいうと、関係の有無は確かめられないので、今後の検討にまちたい(もっとも誰か既に結論を出しているかも知れないけど・・・)。
 それにしても、これが大石内蔵助とか堀部安兵衛とかいう名前だったら、ただの偶然であっても「先祖」だということにして大騒ぎをするだろう。大野九郎兵衛だから、ひっそりと伝わっているのである。うーん、やっぱり不公平かなあ?

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