ほかとはひと味違う武士研究を続けておられる氏家氏の新著(といっても、もう3ヶ月経ってしまった)。“「男」の来た道”という副題にある、括弧付きの「男」、すなわち格好つけの好きな「男」の系譜をたどろうという、意欲的な試みである。なかなか凝った構成になっており、プロローグ(著者と編集者の座談)でねらいが示され、エピローグで全体がまとめられる。極端に言えば、ここだけ読んでも著者のメッセージは伝わるようになっている。要するに、武士道なんてヤクザと大差ないよ、ということなのだが、それを歴史的に後づけようとするのが本書の眼目である。氏家氏の立場がヤクザを称揚するものでない事はいうまでもなく、むしろ武士道の礼賛に冷や水を浴びせようとしているのだ。
一章と九章が序論と結論として照応し、武士が戦う「男」の性質を喪失し、それを継承するものとしてヤクザが存在する状況が説明される。二章が江戸初期、三・四章が江戸前期、五・六章が江戸中期、七・八章が後期(末期)にあてられる。いつもながら、挙げられている豊富な事例には感嘆を禁じ得ない。もっともっと勉強しなければ、と(その時だけでも)思うのである。
もっとも、本書の試みが成功したかというと、疑問である。恐らくは、理論的な問題が残っているのだ。例えば「ヤクザ」とは何かという定義があまりはっきりしない。町奴、六尺、侠盗、博徒・・・彼らは「ヤクザ」なのかそうでないのか。「ヤクザ」でないとすればどこが違うのか、そして「ヤクザ」と歴史的にどうつながるのか。そのあたりがはっきりしないと、「サムライ」と「ヤクザ」を結ぶことができないだろう。そうした部分が具体的にならないと、義侠心・武勇・廉潔といった意識だけで系譜をつなげる任侠ファンと(価値付けは正反対であるとしても)大差ない事になりかねない。大まかな目の付け所は正しいと思うのだが、ちょっと拙速に過ぎたかな、というのが正直な感想である。まして、現代のアンダーワールドまで広げられても、勇み足ではありませんか、と思ってしまうのは私だけではあるまい。
武士の貴族化と、それへの反発。博徒を生み出す階層と行動原理。歴史学の立場から取り組む課題はたくさんありそうである。そんな問題を見つけるために、本書は読まれるべきであろう。
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大河関連本の中に優れた作品を見いだすと得をしたような気分になる。今年は『風林火山』ということで、武田氏研究の層の厚さを反映して、多くの力作が出ている。ドラマの主人公である山本勘助についても、平山優『山本勘助』(講談社現代新書)と笹本正治『軍師山本勘助』(新人物往来社)の2冊を得た。
平山氏といえば、かつて『戦史ドキュメント川中島の戦い』(学研M文庫)における精緻な考証に舌を巻いた記憶がある。本書もまた氏の力量を遺憾なく発揮されたものではあるが、意味合いは少し異なる。山本勘助について詳しい記述のある史料は『甲陽軍鑑』であるが、言うまでもなく全面的には信をおきがたいものであり、史実との相違を指摘するのは(氏にとっては)容易なことである。しかし、勘助については『軍鑑』以後に多くの伝説が付与されてしまっている。そこで、平山氏は『軍鑑』を否定するのではなく、“あえて”『軍鑑』のみに依拠した勘助像を再構築する。
これは“歴史研究”ではないかも知れない。氏自身「歴史書を書いているのか小説を書いているのかわからなくなるほど」というように、すぐれて“文学的”な仕事である。『甲陽軍鑑』という文学作品における登場人物の分析。シャーロッキアンにも似た作業である。歴史学としては、笹本氏の方がよほど「まっとう」といえよう。こちらも同様に『軍鑑』の勘助関連記事を丁寧に読んでいくのだが、その都度他の史料と整合しないことを明らかにしていく。間然するところのない、みごとな論証である。しかし、そういう作業は江戸の兵学者の頃からずっと続けられている。史実と合わないといって否定してしまわずに、そこにもうちょっとこだわってみるのも、悪くはない。そこにこそ『甲陽軍鑑』成立の謎を解く鍵が潜んでいると思われるからである。
平山氏の仕事の意味はそこにある。あとがきに「いつか『甲陽軍鑑』そのものの研究にも手を染めてみたい」とあるのだが、「いつか」と言わずにすぐにでもお願いしたいものだ。『甲陽軍鑑』については国語学の酒井憲二氏が大部の研究をまとめられたところであり、その成果を利用できるような状況にあるのだから、今度は歴史学の側からお返しをすべき時期である。
平山氏の著書はおおむね好評のようだが、ネット上の評言をみると、著者の意図をくみ損ねているのではないかと思われる場合がしばしばである。本書は決して“山本勘助の実像”を明らかにしたものではないし、それを目指してもいないだろう。「唯一の一次資料『甲陽軍鑑』のみに依拠」という出版社の姿勢にも問題がある。逆立ちしても「一次史料」とは言えないので「一次資料」としたのだろうが、まんまと引っかかって「一次史料」に依拠したと読んでいる読者もある。こんな販売戦略が折角の業績に傷をつけないように願うものである。お節介かも知れないが、笹本氏の著書と併読することをお薦めしたい。
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朝日新聞社のムック『元禄時代がわかる』のなかで氏家幹人氏が「さし腹」に言及されたのを興味深く拝見したのは、もうだいぶ昔のことになる。いつか本格的に展開されるものと期待して待っていたのだが、中公新書『かたき討ち-復讐の作法』によってこれが果たされた。
もとよりこれは「さし腹」の本ではなく「かたき討ち」の本である。敵討へのアプローチとして、「うわなり打ち」「さし腹」「太刀取り」といった敵討ち周辺の事象から取り上げ、次第に本丸に迫っていく。視覚は明確。名著『武士道とエロス』の著者ならではの、“敵討の情念”である。プロローグに言う「論旨明快でもなければ、さほど読みやすくもない」は、謙遜である以上に策略であろう。論旨が明快でないのではない、情念が明快であり得ないのだ。
よく知られている史実から、ほとんど無名の史実、文芸作品と、あらゆるところから引かれてくる事例は実に興味深い。どろどろした情念から生まれた敵討ちが、江戸中期以降、法秩序と道徳にからめ取られていく過程は、近世社会全般のありようを理解する手がかりになる。読み物としても優れた出来だし、歴史書としても示唆に満ちた傑作である。
今後敵討を論ずるにあたって必読の一冊となることは疑いないが、若干の不満と不安を述べておく。まず「かたき討ち」の定義が不明確なことである。敵討ちとは何か、ということについては平出鏗二郎氏の有名な規定があるが、これは江戸後期の法制を基準にしたものであって、氏家氏の論旨に適合しない。しかし、それにかわるものは提示されておらず、暗黙裡に“通説”に拠っているように思える箇所もないではない。恐らくそのことは戦国以前の「かたき討ち」に対する低い評価と関わっているだろう。たとえば、いわゆる「弔い合戦」は「かたき討ち」ではないのか。
仮に弔い合戦に敵討の性格を認めるとすると、情念だけではない、政治的な(不純な)動機を含有することが避けられまい。しかし、その種の不純さも含めて理解する必要があるように思われる。パトス重視の方法の価値を十分に認めたうえでなお、エトス軽視には警戒しておきたいのである。
実をいうと、谷口眞子氏の『武士道考』より先に読んでおり、原稿も準備していたのだが、紹介が前後してしまった。全く対照的な「敵討」論を読むのは興味深いことである。できればどこかの出版社でお二人の対談を企画して貰えないだろうか。話がまったく噛み合わないかも知れないけれど・・・。
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谷口眞子氏の著作では、以前に『赤穂浪士の実像』を取り上げたことがある。失礼な紹介の仕方をしてしまった形になったことを、申し訳なく、同時に自分自身不思議にも思っていた。その理由が、新刊『武士道考』を読んで、少しわかったような気がした。要するに、問題関心がかなり近いのに、方向性がほぼ反対を向いているのである。その居心地の悪さが原因ではないかと思う。今回もそうした意味で非礼にわたるかも知れないが、自分が正しいという主張ではなく、こう感じたというだけのことであるので御海容を乞う。
本書『武士道考』は副題に「喧嘩・敵討・無礼討ち」とあるように、近世武士の「実力行使」の場面に着目して、「武士道論」ではない実践された「武士道」を考究しようとしたものである。前提となっているのが大著『近世社会と法規範』であることからもわかる通り、氏の視角は基本的に法制史であり、全体が近世法の体系のなかに見事に位置づけられている。
しかし、そのように綺麗におさまるのが妥当なのだろうか。
そもそも氏が批判の対象としている武士の自立性を評価する立場は、忠君愛国的「武士道」論への批判として生まれたものである。つまり、戦闘者としての武士のありようは、必ずしも治者としての理想とは一致しない、というところがミソだった。そこのゆらぎこそが重要だったのであり、近世法の体系の中に矛盾なくおさめてしまう方向性は、あまり魅力的ではない。
氏の世界には法を破ってでも意地を通す武士は存在しないだろう。しかし、それが武士の「実像」なのだろうか。「当座の喧嘩のような些細な事柄に執着することなく自己を統御しながらも、名誉侵害には毅然とした態度を取り、軍人としての勇気を保持しつつ、支配の一翼を担う資格があることを示す」武士が、『葉隠』や『武道初心集』などの武士道論に示されているものより「実像」に近いとは思われないのである。
過度に理想化されているという意味では、近世法のイメージも問題となろう。そんなにも論理的に矛盾のない体制であったのか、単純に疑問となるところである。しかし、そのあたりについては前著『近世社会と法規範』を検討して論ずるのでなければアンフェアであろう。
個別の論点については機会があれば取り上げたいと思うが、本書全体の印象はこんなところである。労作であることは間違いなく、一読の価値は確かにある。しかしながら、ここから新たな武士道論が展開できるのかというと、あまり積極的には賛同できないような気がするのである。
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公私に多忙でなかなか新規記事をUPできない状況がつづいている。取り上げたい本もずいぶんたまってはいるのだが、着手できないでいる。しかし、大石学氏が『元禄時代と赤穂事件』を出したという情報を聞いては、そのままに捨て置けない。順番を飛び越えて取り上げる次第である。
本書はここ数年に書かれた元禄時代に関する文章を集めたものである。初出の多くが一般向けの読み物で、精密な実証を積み重ねた研究書というわけではないが、「平和」「文明化」をキーワードにして、巨視的に把握した時代を把握した優れた元禄論である。もっとも「文明化」概念には問題が残るだろう。何となくいいたいことはわかるのだけれど、「未開」と「文明」を分ける指標をどこにおくかは分明でない。多文化共生の時代の歴史学が、安易に「文明」概念を使用するのは避けた方が賢明だと思われる。
残念なことには、タイトルから期待されるような、赤穂事件について論じられた部分は必ずしも多くない。第Ⅰ部の四は書名と同じ「元禄時代と赤穂事件」と題されているのだが、全く事件に論及していない。これは編集のミスかも知れない。
事件を取り上げたのは第Ⅲ部「赤穂事件の歴史的意味」だが、これも若干切れ味が悪いような気がする。大ざっぱに言えば「文明化」を実現した元禄時代だから、大石らを“厳罰”に処したという論旨なのだが、これはどうだろう。当事者の事件前の考え方(たとえば、大高源五や武林唯七の親族への遺書、『堀部武庸筆記』に見られる内田三郎右衛門の反応など)を聞けば、そもそも“厳罰”だったのかという疑問が出てくるはずだ。むしろ「文明化」以前の方が治安違反を厳しく取り締まった可能性もあるだろう。ただ、そうした批判をしようにも、記述が簡単に過ぎて、氏の考え方を十分にふまえて考えることができない。もう少し紙数を費やして立論していただきたかったと思う。
いちばん興味深かったのは第Ⅱ部二「柳沢邸と前田玄長」の章だった。あまり知られていない事情が多く示されていて、いろいろなことを考えさせられた。綱吉が公家の子弟を小姓として採用した意図が那辺にあったのか、それに対する公家社会の反応、武士たちの受け止め方など、知りたいことがいくらも出てくる。高家再編の目論見が綱吉にあったと断定し、それを吉良家の断絶とからめて理解するのはいささか早計だと思う。しかし、かりにそれを補強するような証拠が出てくれば、赤穂事件の持つ意味が大きく書き換えられる可能性もあるだろう。今後の研究の進展に期待したい。
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野口武彦氏の著作をすべて読破している訳ではないから確実な事は言えないのだが、どうも近年“芸風”が変わられたような気がする。大学を退官されて《文芸評論家》ないし《著述業》になられたせいだろうか。自分の関心に近い分野だけを拾っていたせいもあるだろうが、狭義の文学の枠にとどまらない研究成果から「野口さんって本当に国文学なの?」という疑問を抱いたものだが、最近の著作を拝見すると、なるほど“文学者”なんだなと納得させられる。
そんな感想をもった最初は『新選組の遠景』のうち「油小路の血闘」である。池波正太郎・藤沢周平なき今、これだけの迫力をもって修羅場の書ける小説家はいないのではないか(と言ったら現役の小説家各位に失礼かしら)。もとから無味乾燥な文章を書く方ではないが、研究者のスタンスから解放されて筆力を自在に駆使できるようになったのかな、と思った。続いては『長州戦争』の歩兵隊合同法要の叙景の結び。未読の方はぜひお読み頂きたいが、これもまた実に美しい名文である。なるほどたしかにこれは“文学”だ。
ただ、この変化は氏の“歴史離れ”の現れではないだろうか。前二著の間に出版された『大江戸曲者列伝』2冊はもと週刊誌に連載された読み物で、これまた滅法面白い。しかしながら、「えっ、それを事実として書いちゃっていいの?」と思わせるような、怪しいネタもある。もとより作者は覚悟のまえ。「歴史をみずみずしく活写する」ために「民間に流布したゴシップ」を材料とする「ゴシップ史観」なのだから、当然すぎるほど当然の話なのだが、歴史認識としては問題が残る。
氏のスタンスに罪はない。それだけに読む側の責任が重大である。眉に唾をつけて読むのが、この場合は礼儀にかなったことと言うべきであろう。
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大河関連本として企画されたであろう小和田哲男氏の新著である。副題に「武田軍団強さの秘密」とあるので、まあよくあるキワモノかと、正直あまり期待しないで買ったのだが、さすが小和田氏、案に相違して大変面白かった。逆にいうと「強さの秘密」を知りたい向きには期待はずれだったかも知れない。
本書の目的は、『甲陽軍鑑』という書物がどのような性格のものか、ということを明らかにすることにある。いうまでもない甲州流軍学の教科書である。武田信玄の臣・高坂弾正の著となっているが、この点には江戸時代から疑問が持たれ、近代の歴史学では田中義成氏の小幡景憲“綴輯”説以来“偽書”説が主流になっている。これに対し、石岡久夫・有馬成甫氏らの兵学研究では尾畑=小幡勘兵衛が元和七年に筆写したという一本(以下元和写本という)を根拠に反論してはいたが、あまり支持されていなかった。近年国語学者・酒井憲二氏による元和写本の精緻な研究が行われたのを承けて、本書は書かれている。
小和田氏は基本的には酒井氏の所説を支持すると宣言している。ただし、小幡景憲による補筆の可能性を示唆しているあたりは、酒井氏の“装丁”説よりは田中氏の“綴輯”説に近づいているようだ。そもそも酒井説にしたところで、定義次第で“綴輯”説といってよいものである。酒井説支持の立場にこだわらない方がいいのではないか。史実とのくいちがいを検討した第四章の記述が、歯切れの悪い印象を与えるのもそのためのような気がする。戸石崩れの年次の問題でも、『軍鑑』自体に矛盾があることを指摘しているが、元になった資料が別人の手になるものであるためとした方がスッキリするだろう。山本勘助がらみの記事に問題が多いという指摘は、むしろ通説を補強するものではなかろうか。酒井説を出発点にしても、結論的には“綴輯”説の方に軍配があがりそうではある。
もちろんこれは解決を意味してはいない。『甲陽軍鑑』の全体を小幡景憲の述作とみなす説は論外としても、多くの資料をひとつにまとめあげたのは誰か、それにこの標題を与えたのは誰か、そしてそれはいつのことであったか、といった問題はまだまだ検討の余地がある。恐らくこうした問題を本格的に展開するのにふさわしい場では、本書はなかったであろう。ここでは元和写本を軸にして『甲陽軍鑑』をとらえるというスタンスを確保し、酒井説を批判的に継承して『甲陽軍鑑』の新しい理解を示す道筋が示されたことに満足すべきだろう。歴史学の立場からする『甲陽軍鑑』の本格的研究はこれからであり、その意味で本書はまさに「入門」篇だと言えるのではなかろうか。
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山本博文氏の本は大体すぐ読むのだが、本書は諸般の事情で後回しにしてしまった。実に興味深い本なので、おくればせながら紹介しておこうと思う。
題名から“実録・大奥物語”を期待して買った人がいたら、肩すかしを食ったことと思う。さまざまなエピソードも紹介されてはいるが、岸田今日子さんの語るような情念の世界は、ここにはない。我々がみることができるのは「政略結婚」の実像である。正直なところ、前半(第三章まで)はやや平板な列伝という印象がある。俄然面白くなるのが第四章。徳川家・島津家・近衛家それぞれの思惑の交錯と、女性の果たす役割が活写される。さすがに山本さん、島津がからむと滅法強い。
前近代、ことに上級武士の世界では、政略結婚以外の結婚など存在しない。ただ政略結婚とひとくちに言ってしまったのでは面白みがない。実際にどのような「政略」が存在するのか、その効果がどのように現れるのか、実相に即して理解される事が必要である。そしてまた、女性をただ政略結婚の「犠牲」者として見るのではなく、その中で生きる主体としてとらえかえすという視点が要る。本書は徳川将軍家歴代の婚姻を追うことにより、政治史に新たな視座を提供してくれる。この視座は今後さらに豊かなみのりをもたらすはずである。
再来年の大河ドラマは「篤姫」に決まっている。原作である宮尾登美子氏の『天璋院篤姫』は傑作である。これから沢山の関連本が出ることだろう。孫引集みたいなものに混じってでいいから、良い本が一冊でも多く出る事を期待したい。
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副題が“二百年間集積史料「御家耳袋」”とある。鈴木氏は熊本の地方史家・地名研究者であるが、出身は大垣。実家にあった史料を公開されるということで、その第一弾が本書である。
内容は大垣藩にかかわる雑記である。多岐にわたっている、ということは、言い替えると統一感がない。かなり断片的な記載が多く、意味がよく通らない。著者不明の編纂物、しかも写本であり、まるのみに信用する訳にはいかぬ体のものではある。と書くと欠点ばかり挙げているようであるが、それを補ってあまりある魅力がある。それは鈴木氏の親切な解説に負うところが大きいことも付記しておこう。「御家耳袋」に対する氏の思い入れが、この本の価値を高めているのである。
私自身の問題関心からいうと「元禄十五壬午年二月二十三日御家中御仕置替次第」が興味深かった。元禄十五年、そう浅野刃傷事件と吉良邸討入事件の間に、戸田家では藩政の主導権をめぐってクーデターがあった、らしいのである。戸田権左衛門とか鹿野治部右衛門といった、赤穂事件の史料で馴染みのある名前が、全く違う文脈で出てくる。残念ながら、この政変劇が何を目的としていたのかというような肝心の事はわからない。当然ながら、赤穂事件との関係も不明。恐らくは関係ないのであろう。ただ、小説家的空想を膨らませるならば、大石の(いわゆる御家再興)運動に協力的な勢力と消極的なグループとの対立を想定することも、成り立たない事もないような気がする。
大垣は空襲の被害を受け、戸田家関係の史料が多く焼失したということも、本書で知った。赤穂開城をめぐっては、戸田家に重要な記録が残っていたらしいのだが、内海定治郎氏が用いた史料も今は残っていないのかも知れない。
そうしたことを思えば、史料を出版しておくという仕事は実に重要である。本書は愛文書林刊行で岩田書院発売。@nifty Booksでは扱いがないようである。「永蔦雑志」で書籍を紹介する時には、通常リンクをはっているのだが、そういう訳で今回はリンクがない。興味のある方はぜひ岩田書院のサイトからはいって御購入いただきたい(税抜き2857円)。売れ行きがよければ、鈴木氏の今後の活動にもはずみがつくだろうし、各地に眠っている史料が紹介される機縁にもなろうというものである。
※(追記)その後扱いが始まったようなので、リンク貼っておきました。(2006.10.30)
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新潮新書『武士の家計簿』がとても面白かったので紹介しようと思いつつも、何となく機会を逸してしまった。その著者である磯田道史氏の新作『殿様の通信簿』が出たというので、今度こそ取り上げようと大いに期待して購入した。
ところが、最初の章「徳川光圀」とその次の「浅野内匠頭と大石内蔵助」は、期待はずれ。せっかくの『土芥寇讎記』を十分に活かす使い方ができていない。原因は『寇讎記』自体の史料批判をせず、これに依存しすぎた叙述になっているためだと思う。ただ有名人をくさすだけでは面白くならない。がっかりしながら読み進めたのだが、その次の章「池田綱政」で歓喜の大逆転が待っていた。“馬鹿殿様”の烙印を捺された人の意外な一面。思い入れ
のある人物を、自分で探してきた材料で述べる。こういう箇所に妙味が出るものなのだ。
その後の章も、それぞれ読物として面白いが、史実を探索するという興趣から言うと「池田綱政」に及ばない。逆に言えば、綱政の一章だけでもこの本を買う価値はあるというものだ。
引っかかるのは、後半諸章が『寇讎記』とはほとんど無関係だったこと。わずかに「内藤家長」の章で少し言及されるだけである。全体に『殿様の通信簿』とタイトルをつけたのは、「家計簿」の次だから「○○簿」にしたかった編集の意向だろうが少々あざとい。
それにしても、「平成の司馬遼太郎」の呼び声が高いというのはどの方面でだろうか?ジャンル分けとかレッテル貼りに大した意味はないが、司馬さんは小説家だし、磯田氏は歴史家である。問題関心も、叙述のスタイルも、かなり異なっている。史料の読み込みに長じている磯田氏にとって、こんな看板は大して名誉にもなるまいと思うのだが如何だろう。
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吉川弘文館の歴史文化ライブラリーの1冊として谷口眞子氏の『赤穂浪士の実像』が出版された。“討ち入り成功を前提に書かれた「勧善懲悪」の物語から赤穂事件を解き放つ”という宣伝文句を見た時から、わくわくする気持ちで発売を待っていた。だが、実際に読んでみると、どうも違和感があった。この本をどう評価したらいいのだろうか。
まず、全体の傾向として、事件自体についての記述が不親切である。これでは、予備知識のない人には事件の推移はよくわからないだろう。恐らくそのことと関係しているのだが、史料の扱いも先行研究の整理もかなりぞんざいなように思われる。
「事件にかかわる人々の行動や考え方をリアルタイムで理解するためには、当事者あるいは彼らに近い人が、その時々に書き記した史料を使うことが望ましい」というのは、全くその通りである。「実録物は一切利用しなかった」というのも、意気込みは壮としよう。しかし、その舌の根も乾かぬうちに「討ち入りを決定した京都円山会議に至る過程」云々と記述するのはどうしたことか。「実録物」によらずに「討ち入りを決定した円山会議」の存在を立証できるかどうか、はなはだ心許ない。通説が「実録物」によって形成されたことを知らないのか、それとも本人は「実録物」によらないが「実録物」に依拠した先行研究を利用することには躊躇がないのだろうか。それでも「実録物は一切利用しなかった」と胸を張れるのだろうか。
同時代のものなら無条件に信用してよいか、という問題もある。たとえば開城過程の史料として最近人気の岡山藩忍びの報告を用い、4月12日時点で連判したとされる人名を挙げる。この中には当時江戸にいて赤穂に不在の者もあれば、この世に存在していない人物も含まれている。著者はそのことに気付かないのか、頬被りをしているのか、一切触れていない。これは、城内深く入り込んで機密事項を探り当てているかのように思われがちな「忍び」が、噂話程度を取材しているに過ぎない「実像」を明らかにする史料として重要なものであろうが、「赤穂浪士の実像」を理解するために適切とは思えない。
まして「多門伝八郎筆記」などを信用するのはいかがなものか。「実録物」扱いではあっても『江赤見聞記』『赤城士話』あたりの方がよほど信頼に値するはずである。通してみて、谷口氏が自分で史料批判をしたらしい形跡はほとんどない。野口武彦氏や赤穂市『忠臣蔵』に頼り切りのように見える。自身できちんと吟味されれば『堀部筆記』の読み方も変わってくるはずなのだが。
わかりやすい概説というわけでもなければ、堅実な実証を積み重ねるというわけでもない。この本をどうとらえればいいのか、迷っている次第である。ただまあ、そのまま看過しがたい“問題作”であるとは言うことができるであろう。お薦めはしませんが・・・。
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新聞等の報道で御存知の向きもあるだろうが、豊岡在住の瀬戸谷晧氏が『忠臣蔵を生きた女』を上梓された。氏は豊岡市の文化財管理センター所長をつとめるかたわら、郷土出身の理玖(大石内蔵助妻)の研究に力を注いでいる。研究の成果は御自身のサイト「但馬の歴史と文化財」などで発表されていたが、このたび一書にまとめられたものである。
私も面識はないのだがネットを通じておつきあいさせていただいており、本書の中にも少しだけ登場していたりする。だから、という訳ではないが、篤実な人柄と真摯な研究態度のにじみ出た素晴らしい本になっていると思う。
これまでにWEB上で公開されていた事柄や、頂戴した印刷物に載せられていた事も多いのだが、本書ではじめて明らかにされた事もまた少なくない。私としては、個人所蔵の「赤穂大石家文書」の調査のくだりが最も印象深い。「開運!何でも鑑定団」で放送されたおりには私もチェックしており、いずれしかるべき所が調査するだろうくらいに考えていたのだが、瀬戸谷氏は調査に乗り出してしまった。その熱意と行動力には感嘆のほかはなく、それが本書の魅力になっているのだと思う。
中には誤植とおぼしき箇所や思い違いをされているのではないかと思われる箇所もないではないが、ほんの瑕瑾であり、本書の値打ちをそこなうものではないだろう。
出版元は地元・豊岡の印刷会社・北星社なので、若干入手が困難かも知れない。同社のサイトから取り扱いのある書店などがわかるので、御参照下さい。(紹介書籍の写真からbk1には行けます)
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神田千里氏の『島原の乱』(中公新書)はスゴイ本である。特別に新発見の史料などがある訳でもないのに、新発見の内容が次々出てくる。従来の定説を片端から覆しているのに、何のケレン味もない。ウーンと唸り、参ったと叫びながら、何とも言えぬ爽快感を味わえる。
前提となっているのは我々の認識する島原の乱が、主として近世後期の百姓一揆のイメージの投影だということにあろう。中世の宗門一揆の専門家の目からとらえなおされた像は、いかにも新鮮で驚きに満ちたものになる。大体「迫害されたキリシタン」というのはわかりやすいのだが、異教徒に改宗をせまる「迫害するキリシタン」なんて考えたこともなかった。考えてみればヨーロッパでは魔女狩りをやっているのだから、驚くにもあたらないのだろうけれど、日本史の場面でそういうのが出てくるとは意外。キリシタン大名の宗教政策を見れば、近代的な信教の自由という視点から来る禁教批判はいかにも空虚である。乱以前の禁教が不徹底であり、乱以後に取締が徹底されるというのはコロンブスの卵、いやコペルニクス的転回というべきか。
戦場における「百姓」の働きなども、藤木久志氏の近業はあるものの、寛永でもこれほどだったかというのはやはり意外。兵農分離論という公式で割り切ってしまいがちな自分を大いに反省するのであった。また、本書に見られる一揆勢は終末思想にとらわれたカルト教団のような印象があり、こういう姿は“邪宗門”観を与えるが、それがキリスト教の本質でないことは、現代人には言うまでもないことだろう。「日本宗」ととらえられる在来の宗教意識の問題は、「神国」意識や「天道」思想とあわせてさらに究明されていく必要がある。「島原の乱」という一つの事件から、寛永の社会の全体、ひいては幕藩体制そのもの、さらには日本人の宗教意識などの様々な問題意識が刺激される、知的興奮に満ちた一書なのである。
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妻の内助の功ばかりが有名な地味めの武将・山内一豊の伝記が新書で2冊。いうまでもなく来年の大河をあてこんだ企画であるが、いずれもキワモノ扱いをしてはすまない力作である。
PHP新書の小和田氏は、戦国から近世初期にかけてすでに多数の評伝を物している、いわばオールラウンドプレイヤー。講談社現代新書の渡部氏は、土佐山内家宝物資料館長を務める、山内家のスペシャリスト。両者共にその持ち味を活かして、面白い評伝となっている。
念のためにいっておくが、渡部氏を山内家のスペシャリストというのは、決して蛸壺研究者だという意味ではない。近世初頭の政治史に広い視野と深い洞察が示されている。ただ、たとえば秀次宿老ベルトとか、見性院上洛の意義などは、全方位型の研究者なら見落としがちの所であって、スペシャリストならではのきめ細かい考察だということである。小和田氏に広くて深い見識のあることは、今更いうまでもあるまい。
少々意外かも知れないが、俗説により厳しい態度をとるのは渡部氏の方である。例の名馬購入の一件を例にとれば、伝えられている話の辻褄が合わないという認識は共通なのだが、渡部氏はほとんど否定的であるのに対し、小和田氏は伝説のはいる余地を何とか探そうとしている。そんなあたり比較して読むと興味深い。
懺悔をしておこう。最近まで「やまのうち」と読んでいました。ごめんなさい。そんなことに気づかせてくれただけでも、ありがたかったです。
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なんだか安っぽい小説みたいなタイトルだが、山本博文氏の最新作、江戸時代の武士の行動にある意外に卑小な心性を追求したものである。これまでの著作の集大成みたいなところもあってけっこう奥は深いのだが、個々のエピソードが面白く気軽に読める。本当なら『殉死の構造』『「葉隠」の武士道』『鬼平と出世』『武士と世間』くらいはおさえておいた方がいいと思うのだが、本書だけでも十分楽しめるだろう。
もちろんただ面白いだけの読み物ではない。しっかりした史料に基づいた豊富な話柄と、すぐれた分析力による理論構築はまことにみごと。特に近世中期における「嫉妬」の変質を指摘するあたり、透徹した史眼に感嘆するほかはない。
疑問がないでもない。まずは、嫉妬というシロモノがあまりにも人類通有の感情であるだけに、歴史事象の分析概念として本当に効果的なのだろうか。武士の言動に存外卑小なところを見出す経験は我々にもしばしばあるのだが、そうかといってそれを軸にとらえることはあまり適当ではないような気がする。重要なのはむしろ、そうした卑小さを適切に位置づけることではないだろうか。
たとえば『葉隠』の評価である。いつもながら氏の『葉隠』理解は少々冷たいのだが、「小姓づとめが嫉妬深さの要因」とするあたり、本来の武士らしさと嫉妬感情を対比的にとらえる通俗的理解に逆戻りしているのではないか。
嫉妬心が正義の仮面をかぶって他人の足をひっぱることというのは、たしかにあるだろう。しかし、そういう見方をしていった場合、批判精神そのものを否定していくことになりかねない。「嫉妬」概念でくくってしまうのが本当に効果的なのか、疑問を持たざるを得ないのである。
いやいや、こういう文句の付け方は、またもや面白い本を出した山本氏への嫉妬のあらわれに相違ない。読者はどうぞお気になさらず、本書を存分に楽しんでいただきたい。
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タイトルにひかれてつい買ってしまった本である。
面白いか、と聞かれれば迷わず面白いといえる。しかし・・・これって本当に歴史学者の著作なんだろうか、という疑問を持たざるを得なかった。
著者の博識は称賛に値する。が、ほとんどが孫引きでオリジナルの研究成果ではなさそうだ。
嫉妬についての歴史的な考察がある訳でもない。むしろ時空を超えて人類通有の悪癖として嫉妬を捉えているので、印象としては「超歴史」的である。しかも、ケースによっては「嫉妬」以外の要素の大きそうな関係も扱われている。
「嫉妬」とは何かを歴史的に考える、という視点だったら遥かに意味のある著作になったであろうに、残念ながら期待はずれ。ただし、読物「ライヴァル世界史」(むかしNHKで「ライバル日本史」ってやってましたね)としては十二分に読みごたえがあります。
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仏教にそれほど詳しいわけではないが、それでも白隠の名くらいは知っていた。たぶん講談で聴いたのが最初だったろう。その後多少伝記などは読んだのだが、最近はあまり接する機会がなかった。書店の店頭で本書を見たとき、つい手に取ったのは懐かしさのなせるわざだったかも知れない。
ただし本書は懐旧の情に浸らせてくれるものではなく、全く新しい刺激に満ちたものだった。副題にあるとおり、本書で扱われるのは白隠の禅画であるが、著者はそれにこめられた白隠のメッセージをきれいに解き明かしてくれる。なるほどとうなずき、へへえと感心し、はあそうだったのと驚く。正直知らないことばかりで、たいへん勉強になったものである。
不満を言うなら、メッセージを超えた白隠禅画の魅力について語られないことだろうか。ただの絵公案であったなら、かくも高い評価を得ることはあるまい。小泉吉宏やあいだみつをだって、メッセージだけで評価されているはずはないので、作品自体の魅力は別にあるはずなのだ。これは本書に対する「ないものねだり」には違いない。著者は美術の門外漢として、美術的にあまり評価されていない戯画的な作品の読み解きに力を注いだのだから。しかし、宗教的境地と芸術的な高みとがどのように連関するのか、という視点がないと宗教画の理解はむずかしいように思われるのである。
なお、芳澤氏はほぼ同じ内容で講演をされているので、本書を読む前にダイジェストとして講演の記録に目を通されるのもよいかも知れない。
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最近はまとまったことができないで更新サボりまくっている。読んだ本の紹介でお茶を濁しておこう。
まずは原田多加司『屋根の日本史』。自分の欠点なのだが、モノに対するこだわりがほとんどないので、ナントカ造りというのがさっぱり頭に入らない。そのため、内容を十分掌握しているかというと、はなはだ心許ない。それでも、職人の生活など、興味深い記述が満載で、とても面白い。専門家の得難い知見が新書で手軽に読めるというのは、大変に意義深いことであろうと思う。
専門家といえば、医者の立場から歴代将軍を診察した篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』も、読み物として出色の出来であろう。似たような企画はあったような気もするが、とにかく気楽に読めて楽しい。学問的にはもっと検証しなければならないとは思うものの、それはないものねだりに属するだろう。
学問的な検証を要するものの、楽しい歴史読み物がもうひとつ。小石房子『江戸の流刑』は、題材からして「正史に書かれなかった裏面史」である。ちょっと眉唾っぽいなという記述もないではないが、何しろそれを批判する用意がこちらにまるでないような話題。勉強しなくちゃ、という気にさせてくれる一冊である。なお本書の執筆の動機のひとつが前著『流人100話』の絶版とのこと。定めて良い本であろうと推測される。良書の復活を心より願う次第である。
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著者は精神科医で京都医療少年院勤務。その立場から現代日本を「自己愛型社会」ととらえ、古代ローマ、近代オランダ、そして現代アメリカという類似社会の盛衰を概観する。そのむかし小此木啓吾や岸田秀を(ロクにわかりもしないのに)よく読んでいたのだが、最近はすっかり御無沙汰している。久しぶりにこの手の本を読んだのだが、とても面白くて刺激的であった。
ただし、文明批評としては面白いのだけれど、歴史認識としてはどうなのかな、という気がする。個人的な好みで言うと、「歴史は繰り返す」式の議論は好きでない。「自己愛型社会」をいくども姿をかえてあらわれるものとするよりも、一回生起的な歴史事象ととらえ、その生まれた過程と克服する道筋を模索するスタイルの方がなじみやすいのだ。
理論的な問題でいうと、「自己愛型社会」という規定がかなり恣意的なようだ。「個々の人間を動かしているのは、究極的には、さまざまに変容した自己愛である」とするならば、すべての社会が「自己愛型社会」になりうる。「自己愛型社会」とそうでない社会の境界がどこに引かれるのか、判然としない。結論として「公共精神と個々の自己愛が、うまく均衡することが必要」というが、「公共精神」もまた自己愛の変容した姿ではないのか。一見学術的に見えるこの用語が、実は常識的な「みんな自分勝手」という感想の表明にすぎないような気がしてしまうのである。
いささか危惧するのは、いきすぎた「自己愛」に批判的な視点が、個人の権利を抑制し全体への奉仕を要求するタイプの議論に接近していることである。著者の立場は決して単純ではないが、これに「科学的」根拠を得たつもりになった、私権制限論が簇出するだろうことは想像に難くない。その手の論者は、往々にして自分こそが愛国者であったり世界を救う者であると信じて疑わない「自己愛」の塊だったりする。
繰り返していうが、この本はとても面白い。こんなに面白い本を、ねじまげて使われるのではないかと恐れ、単純にたのしめないところにこそ、末期的自己愛型社会の弊害が出ているのかも知れない。
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横浜三越が5月に閉店するので、今大売り出しをやっています。そこに特別出店しているのが有隣堂。「絵本フェスティバル」というイベントになっています。http://www.yurindo.co.jp/info/event.html#mitsukoshi
中でもスゴイのが「しかけ絵本の世界展」。まあいわゆる「飛び出す絵本」なんですが、ちょっと子どもだましではない。サブダという作家のものなどはまさに芸術品です。もったいなくて子どもに持たせられませんな(価格もちょっとお高い)。
19世紀のしかけ絵本なども(点数は少ないですが)展示されており、興味深い。
ついでがありましたら、寄ってみて損はないと思います。
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