いかん

年がかわってから書いていませんでした。
気をつけないと、削除されちゃうなあ。

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秋田県公文書館の『岡本元朝日記』

 吉良上野介の人物について記載があるということで最近よく取り上げられるものに岡本元朝日記がある。岡本は秋田佐竹家の家老だった人物で、日記は秋田県公文書館の所蔵。これがよく知られるようになったのは、昨年12月に同館の『古文書倶楽部』20号で紹介されてからのことらしい。恥ずかしながら未見であったが、館のサイトにPDF文書があることに気がついた。
 http://www.pref.akita.lg.jp/www/contents/1144808186646/files/komonjokurabu020.pdf

 なかなか興味深い。記事は江戸大番頭・渋江十兵衛の書状(元禄14年3月17日付、同24日着)の要約である。注目されているのは、吉良について「日頃かくれなきおうへい人」という噂、ことに「物ヲ方々よりこい取」という強欲ぶりである。もっともせびり取る品物が雪舟の三幅対だったりするから、強欲というよりも強烈な芸術嗜好だったかも知れない。
 それ以上に面白いのが刃傷の「実況中継」である。渋江情報では浅野に切りつけられた吉良が刀に手をかけ「何をするや」と取って返し反撃しようとしたのを、畠山民部らが取り押さえ「内匠殿は乱心だから」となだめた、とある。これでドラマを作ったら大ブーイングだろうな。もちろん梶川与惣兵衛の証言とも食い違い、事実だと認められる訳ではない。もしこれが事実だったら、浅野だけ切腹では大誤審だ。ただ、こういうイメージで語られたのは、同時代の武士たちがこの事件を「殿中の喧嘩」と認識していたことの表れだろうし、何となく浅野びいきの風潮が生まれてくる原因にもなったのではないだろうか。
 ここで紹介されているのは、浅野刃傷事件についての情報だけだが、翌年12月の討ち入りについては何の記載もないのだろうか。秋田には、宝井其角から情報を得た梅津半右衛門もいたはずである。二人で敵討論をかわした様子なんか記されていたら面白いだろう。
 ともかくも、こうした貴重な資料がWEB上で公開されていることはまことに欣快である。さらに言えば岡本日記そのものも翻刻されたり、WEB公開されたら嬉しいのであるが・・・。

(追記)
 同館の『古文書倶楽部』22号には、『梅津忠昭日記』に記された浅野刃傷事件が紹介されている。
 http://www.pref.akita.lg.jp/www/contents/1144808186646/files/komonjokurabu022.pdf
出典は『秋田史談会記事』で、明治44年の史談会例会に郷土史家の東山多三郎が持ってきたものだという。事件についての情報は、『岡本日記』に比べれば正確で、そのぶんつまらないとも言える。しかし、この梅津忠昭、まさに其雫・梅津半右衛門その人ですよね?うーん、これも討ち入りについての記述を見てみたい。
 『倶楽部』によれば現在確認できるのは抄本で、原本は行方不明の由。無事見つかることを祈ってやまないものであります。

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10月

ああ、もう10月だ。
ごめんなさい。また消滅防止です。

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梅雨明け

 6月に何も書かないまま、7月も半ばを過ぎ、梅雨明けまでしちゃいました。
 例によって、削除防止の意味なし更新です。ごめんなさい。

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1万

いつの間にやらカウンタが一万を超えてました。ろくに更新もしていないのに、ありがたいことです。がんばらなきゃね。でも、しばらくはむずかしそう・・・。

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4月

 4月になっちゃいました。
 公私に(っても主に私か)に多忙で更新もままなりません。ココログも長いこと新規記事がないと削除されるらしいので、生存を証明するためだけに、あまり意味のない記事を挿入いたします。あしからず御了承ください。

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日本史必修化の議論

 「二足のわらじ」の続編を書こうと思っていたら変なニュースが入ってきた。政治的な話題に触れたくはないのだが、あんまり滅茶苦茶な議論が罷り通っては困るので、少しだけ。
 神奈川県教育委員会が県立高校で「日本史」を必修化すると言いだし、町村官房長官がそれに好意的なコメントをしたという。ネットのニュースで見ているだけなのだが、付されているコメントの中には見当はずれのものもあるやに思われる。
 まず第一に、このニュースではじめて「日本史」が必修科目でなかったと知った人が多かったようで、そのこと自体が批判の対象になったりしている。ただ、元来「学習指導要領」は指導の参考として作られたもので、法規ではなかった。後に法的拘束力があるという話になってややこしくなるのだが、ここでその議論をするつもりはない。要するに、特定の教科に限った話ではなく(英語でも数学でも同様に)必修科目は最小限にする傾向があるということを確認しておきたい。自分が高校の時には日本史必修だったという方が多いと思うが、それは学校として必修科目にしていただけで「指導要領」的にはずっと必修科目でなかったなのだ。
 最近、「日本史」が必修でなくなった学校は確かに多いと思う。しかし、それは日本の伝統文化を軽視するという意味ではない。土曜が休みになったり、家庭科が男女共修になったり、「総合的な学習の時間」や「情報」などが必修科目に参入してきたりして、必修枠が不足するようになったためである。教育課程は学校ごとに編成するもので、各教科の理想はありながらも、最終的には数合わせで妥協していくしかない。その中で日本史が“譲る”ケースが多くなってしまったのだ。
 「総合的な学習の時間」などは現場のニーズで生まれたわけではない。文部官僚や文教族政治家に押しつけられたものである。日本史履修者が減っているのは、文部省(文部科学省)と文教族の責任である。そういえば町村官房長官は代表的文教族。ひとごとみたいに言っているのは、無責任の極みでないか。
 「日本史」が譲らざるを得なくなっている背景に、「世界史」が必修であることの影響があるのは確かである。ただし、左翼勢力の所為ではない。このときに中心的役割を果たしたのは保守的知識人・木村尚三郎東大名誉教授(西洋史)だった。左翼勢力の牙城みたいに思われていた社会科を解体し、地理歴史科と公民科に分け、そのどさくさに世界史を必修にしてしまった。そのかわり、中学では日本の歴史を学ばせると称して、世界史分野を大幅に削減したのである。
 この方針にもっとも熱心だったのが例の「新しい歴史教科書」である。これを出しているフジ産経グループが高校日本史必修化に熱心なのは、あんまりひどい。この中学教科書では、古代ギリシアの都市国家もイエス=キリストもゲルマン民族の大移動も取り上げられていない。これで高校の世界史必修をはずしてしまうというのは(自国のことを知るのが国際化の第一歩だという主張を認めてもなお)如何なものであろう。
 ちょっと脱線してしまった。話を戻すと、「日本史」が学校レベルで必修からはずれだしたのは、学習指導要領の改訂に問題があって、必修枠が不足したからである。この状態をそのままにしておいて「日本史」を必修にするとどういう事態が起こるか。数学を減らすとか英語を減らすとかはできないだろう。となれば、ねらわれるのは「地理」である。名目的には選択科目として残すとしても、あちこちの学校で地理つぶしが起きることは避けられない。神奈川県の教育長も官房長官も、地理つぶしを目指している訳ではないだろう。というより、そんな事態が起こるとは考えてもいないに違いない。
 先の見えない指導者に率いられているほど不幸なことはないのである。

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二足のわらじ

 前回の続き、のようなもの。氏家幹人氏の関心事、日本社会がなぜヤクザに弱いのかという問題を考える場合には、「武威」のアウトソーシングよりは、治安維持のアウトソーシングの方が重要なように思われる。すなわち、犯罪者集団と公的権力が相互依存するような政治文化である。
 ここでイメージしているのはいわゆる「二足のわらじ」である。博徒でありながら公権力の手先をつとめ、公儀の威光をかさにきて非道を働く鼻持ちならない存在、というようなイメージである。中には、国定忠治を密告した三室の勘助などもいる。
 この勘助について、高橋敏氏は名主などをつとめた人物で、「二足のわらじ」でなかったと論じておられる(『国定忠治』)。貴重な史料を掘り起こした業績には敬意を表するのだが、博徒でなかったという結論は如何だろう。「賭魁」という羽倉簡堂の表現を否定するほどの根拠は示されていないような気がする。
 勘助が「道案内」だとすれば、名主であることは不思議でない。三田村鳶魚『捕物の話』などによれば、そもそも関東取締出役の「道案内」をつとめるのは村役人クラスの有力農民である。犯人捕縛などに活躍する「番太=目明かし」と同一視する訳にはいかない。地域の有力者を治安維持に利用するのは、近世後期の関東に限定されていた訳ではあるまい。「引窓」(『双蝶々曲輪日記』八段目)の南方十次兵衛こと南与兵衛は、おそらくそこここに存在していたはずである。南与兵衛も品行方正とは言えないし、義侠心も持ち合わせているが、博徒ではない。ふたたび鳶魚によれば「博奕打のある者に十手を預ける」ケースはないでもないが、それは「百姓でありながら、身を持ち崩して博奕打の中に入っている者があるような場合には、昔のよしみで案内者になる」という道筋らしい(『侠客の話』)。そうだとすれば、「二足のわらじ」は博徒のくせに御用を務めているのではなく、御用を務めるような家柄なのに博徒になってしまったのではなかろうか。そして、出役の「道案内」をするのに、博徒であることはさして障害にならなかったらしい。(幕領ではこうしたことがなかったというから、全面的にOKではなかったのだろうが)
 「二足のわらじ」に限ったことではなく、大親分と呼ばれるような者はたいがい百姓上層の出身である。飯岡の助五郎は網元の養子だし、笹川の繁蔵は名主の子である。国定忠治は新田義貞郎従の末裔という草分百姓の家柄だし、清水の次郎長の実家は複数の船を所有している船頭で、養家は資産数千両という米穀商だった。どうしてそんな現象が起こるのか。これについても鳶魚の著述にヒントがある(『侠客の話』)。親分と立てられるような者は博奕で勝ってはいけないらしい。きれいに負けて子分たちを潤さなければ、人気が出ないのだそうだ。そうだとすれば、どこかに資金源がなければならぬ。悪どく稼ぐのもないではなかろうが、それも男を立てるにはマイナス要因になろう。結局は家から資金を調達できる立場が有利なのだ。親不孝の代名詞のような博徒でも、親ほどありがたいものはない、のかも知れない。
 そんな博徒であるから、出身の村落社会でも一定の地位を保有していた。国定忠治に人気があったというのは知られているが、飯岡助五郎も地元では評判がいいらしい。「博徒の分際」でというよりは、本来そういう役割を期待される「地域の有力者」としての顔なのではあるまいか。これはもちろん幕藩制の民衆支配策のありようとも関係している。広範に百姓の「自治」を認める、裏返しで言えば村に任せきりの幕藩権力。それと対応して一種の名望家政治を実現する百姓たち。「二足のわらじ」はそういう構図の中の一現象なのだ。
 ところで、今回全面的に依拠した鳶魚翁、管見の範囲では「二足のわらじ」という表現を用いていないようだ。この語に史料的な裏付けがあるものかどうか、はなはだ以て疑わしい。読者諸賢の御示教をたまわりたいものである。

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氏家幹人『サムライとヤクザ』

 ほかとはひと味違う武士研究を続けておられる氏家氏の新著(といっても、もう3ヶ月経ってしまった)。“「男」の来た道”という副題にある、括弧付きの「男」、すなわち格好つけの好きな「男」の系譜をたどろうという、意欲的な試みである。なかなか凝った構成になっており、プロローグ(著者と編集者の座談)でねらいが示され、エピローグで全体がまとめられる。極端に言えば、ここだけ読んでも著者のメッセージは伝わるようになっている。要するに、武士道なんてヤクザと大差ないよ、ということなのだが、それを歴史的に後づけようとするのが本書の眼目である。氏家氏の立場がヤクザを称揚するものでない事はいうまでもなく、むしろ武士道の礼賛に冷や水を浴びせようとしているのだ。
 一章と九章が序論と結論として照応し、武士が戦う「男」の性質を喪失し、それを継承するものとしてヤクザが存在する状況が説明される。二章が江戸初期、三・四章が江戸前期、五・六章が江戸中期、七・八章が後期(末期)にあてられる。いつもながら、挙げられている豊富な事例には感嘆を禁じ得ない。もっともっと勉強しなければ、と(その時だけでも)思うのである。
 もっとも、本書の試みが成功したかというと、疑問である。恐らくは、理論的な問題が残っているのだ。例えば「ヤクザ」とは何かという定義があまりはっきりしない。町奴、六尺、侠盗、博徒・・・彼らは「ヤクザ」なのかそうでないのか。「ヤクザ」でないとすればどこが違うのか、そして「ヤクザ」と歴史的にどうつながるのか。そのあたりがはっきりしないと、「サムライ」と「ヤクザ」を結ぶことができないだろう。そうした部分が具体的にならないと、義侠心・武勇・廉潔といった意識だけで系譜をつなげる任侠ファンと(価値付けは正反対であるとしても)大差ない事になりかねない。大まかな目の付け所は正しいと思うのだが、ちょっと拙速に過ぎたかな、というのが正直な感想である。まして、現代のアンダーワールドまで広げられても、勇み足ではありませんか、と思ってしまうのは私だけではあるまい。
 武士の貴族化と、それへの反発。博徒を生み出す階層と行動原理。歴史学の立場から取り組む課題はたくさんありそうである。そんな問題を見つけるために、本書は読まれるべきであろう。
 

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平山優『山本勘助』と笹本正治『軍師山本勘助』

 大河関連本の中に優れた作品を見いだすと得をしたような気分になる。今年は『風林火山』ということで、武田氏研究の層の厚さを反映して、多くの力作が出ている。ドラマの主人公である山本勘助についても、平山優『山本勘助』(講談社現代新書)と笹本正治『軍師山本勘助』(新人物往来社)の2冊を得た。
 平山氏といえば、かつて『戦史ドキュメント川中島の戦い』(学研M文庫)における精緻な考証に舌を巻いた記憶がある。本書もまた氏の力量を遺憾なく発揮されたものではあるが、意味合いは少し異なる。山本勘助について詳しい記述のある史料は『甲陽軍鑑』であるが、言うまでもなく全面的には信をおきがたいものであり、史実との相違を指摘するのは(氏にとっては)容易なことである。しかし、勘助については『軍鑑』以後に多くの伝説が付与されてしまっている。そこで、平山氏は『軍鑑』を否定するのではなく、“あえて”『軍鑑』のみに依拠した勘助像を再構築する。
 これは“歴史研究”ではないかも知れない。氏自身「歴史書を書いているのか小説を書いているのかわからなくなるほど」というように、すぐれて“文学的”な仕事である。『甲陽軍鑑』という文学作品における登場人物の分析。シャーロッキアンにも似た作業である。歴史学としては、笹本氏の方がよほど「まっとう」といえよう。こちらも同様に『軍鑑』の勘助関連記事を丁寧に読んでいくのだが、その都度他の史料と整合しないことを明らかにしていく。間然するところのない、みごとな論証である。しかし、そういう作業は江戸の兵学者の頃からずっと続けられている。史実と合わないといって否定してしまわずに、そこにもうちょっとこだわってみるのも、悪くはない。そこにこそ『甲陽軍鑑』成立の謎を解く鍵が潜んでいると思われるからである。
 平山氏の仕事の意味はそこにある。あとがきに「いつか『甲陽軍鑑』そのものの研究にも手を染めてみたい」とあるのだが、「いつか」と言わずにすぐにでもお願いしたいものだ。『甲陽軍鑑』については国語学の酒井憲二氏が大部の研究をまとめられたところであり、その成果を利用できるような状況にあるのだから、今度は歴史学の側からお返しをすべき時期である。
 平山氏の著書はおおむね好評のようだが、ネット上の評言をみると、著者の意図をくみ損ねているのではないかと思われる場合がしばしばである。本書は決して“山本勘助の実像”を明らかにしたものではないし、それを目指してもいないだろう。「唯一の一次資料『甲陽軍鑑』のみに依拠」という出版社の姿勢にも問題がある。逆立ちしても「一次史料」とは言えないので「一次資料」としたのだろうが、まんまと引っかかって「一次史料」に依拠したと読んでいる読者もある。こんな販売戦略が折角の業績に傷をつけないように願うものである。お節介かも知れないが、笹本氏の著書と併読することをお薦めしたい。

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