February 11, 2016

引っ越し中

@niftyが@homepageを終了すると通告してきました。
残念ですがやむを得ず、引っ越し作業に入ります。
その一環としてこれまでココログでお世話になってきた永蔦雑志ですが、ウェブリブログに移転します。
ビッグローブ版永蔦雑志へブックマークの変更をお願いします。
なお、すべての記事をコピーしましたが、この記事のみビッグローブ版にはありません。

January 04, 2016

野口武彦『花の忠臣蔵』

野口武彦氏の新刊(といっても年をまたいでしまった)『花の忠臣蔵』を読んだ。『忠臣蔵 史実の肉声』からおよそ二十年、大幅な改訂増補としてもよかったのだろうが、あえて別著とされたところに本書への思い入れを感じる。福本日南の『元禄快挙録』から『元禄快挙真相録』への発展に比することができようか。ただ、その方向性は日南とは全く逆であった。

本書はケンペルの江戸参府から筆を起こす。元禄という時代を外国人の目から映し出すというのは卓越した着想ではあるが、ここで著者は室津遊郭への単独行にケンペルを連れ出す。日本人との接触が厳しく制約されていたはずなのに、そんなことが可能だったのか。何を根拠にされたか分明でないが、少なくとも本人の『江戸参府旅行日記』の記述からは読み取れない。おそらくは野口氏の想像力の賜物であろう。本書の行方に大いに不安を抱かせる。
武林唯七については、主君の頭で剃刀の柄を整えた逸話を使う。口碑に存する、というのは重視されてよいが、講談ネタはまた次元が違うだろう。「見てきたようなウソ」なのは共通理解であったはずだ。
義士処分については、「評定所一座存寄書」ですら偽書の疑いが濃厚であるのに、さらに進んで入札説まで取り入れている。これはさすがに信じるひとはいないのではないか、と思うのだが。
ざっとこんな様子である。似たような箇所はここかしこにあって全部を論うことはできないが、要するに随所で眉唾な話が紛れ込んでいるのである。

問題は、おそらくこれが一種の確信犯だということである。野口氏が幕末物でしめした「ゴシップ史観」が、赤穂事件に適用されたのが本書なのだ。福本日南とは逆の方向だというのはその意味で、日南が虚説を排そうとして改訂を重ねたのとは反対に、野口氏はあえて虚説を取り込もうとしておられる。そのことによって、「忠臣蔵文学の系譜に何か新しいものを付け加え」(少し長めのあとがき)ることが本書の目的なのだ。著者の該博な知識はもとより賞賛に値するし、後学として参考にすべき点も多々ある。ただ、本書が歴史研究とは方向性の異なるものであることはきちんとふまえなければならないと思うのである。

January 03, 2016

謹賀新年2016

あけましておめでとうございます。
本年もなにとぞお見捨てなく、よろしくお願い申し上げます。

December 17, 2015

泉岳寺を守る会の休会

泉岳寺中門に隣接するマンション建設に反対する運動を展開していた「国指定史跡・泉岳寺の文化財を守る会」が活動休止を発表した。

http://sengakuji-mamoru.jimdo.com/

これは当該マンションの完成によるものだが、さりとて敗北宣言と見るべきではない。会の活動もあって港区景観計画が見直され、大きく前進したことは疑いない。マンション建設は阻止できなかったけれど、周辺の景観と住環境を守るための基礎は築かれたのである。
たとえて言うなればマンション建設反対運動が「殿中刃傷」で、その失敗は「田村邸の切腹」である。休会は「赤穂開城」で、これから景観保全という「本懐」への長い道のりが始まる。我ら式、天野屋・俵星ほどの力はないが、せめて長屋の八公・熊公ほどには応援していきたいと思う。

November 16, 2015

肝煎・六次郎

これも「野辺地雑記」から。
戊辰戦争時、南部藩は奥羽越列藩同盟の一員として戦った。本当は新政府側について会津攻めに参加するつもりで出陣したが、仙台が同盟側になるという情報を得て、挟撃を避けるために急遽変更したのだという。きれいごとですまない、軍事的リアリズムである。
隣接する津軽・秋田は同盟を脱退して新政府側。盛岡藩兵は秋田領に侵入したし(秋田戦争)津軽藩は南部領の野辺地を攻略した(野辺地戦争)。野辺地戦争に際して、津軽領との境界にある馬門村は焼き討ちにあった。同村の肝煎をつとめていた六次郎(川村孫助)は、この時藩庁に呼び出されて不在であった。盛岡から戻って焼け野原となった村を見た六次郎は「俺がいたらこんなことはさせなかったのに」と呟いたという。いたらどうにかなったのか、などと突っ込むのはやめておこう。戦術ではない、精神の問題である。

戊辰戦争が終結し、朝敵南部藩は減封、野辺地は新設・三戸藩の支配となる。のち斗南藩と改称される旧会津松平家である。この地を通った津軽藩士の大道寺源之進・野呂源太の両人が馬門村の惨状に同情し、救米30俵・材木200石、ムシロ10枚づつを贈りたいと申し出た。ところが当村では六次郎がこれを受けないと言い張っているというので、両人が野辺地町本町善左衛門方に呼び出した。
大道寺「我々は先般当地を通った際に気の毒に思いこれらを贈ることを申し出、百姓どもは承知したというのにその方ひとりがこれを受けないとはいかなる訳であるか」
大道寺はあくまで自分たちだけの気持であると言っているが、全体の補償が困難であるところから個人的な事業としているだけで、実際には津軽藩の方針のように思われる。
それはともかく六次郎
「有りがたき幸せには存じますが、後難のことを思い辞退させていただきます」
大「後難とは何のことだ?」
六「馬門村へ津軽藩よりお手当(補償)がありましたら、南部藩兵が侵入した秋田領へも聞こえ、お手当をいただきたいということになりましょう。津軽様がお手当されているのに南部がしないわけにはいかぬと、意地づくにもお手当されましょう。かつての南部家ならともかく賊名を着たただいまでは手元不如意、とてもそんなことはできまいと存じます」
大「そりゃ、その方の片意地と申すものじゃ。今は誰領分・誰知行ということもなく、みな天朝様の人民じゃ。南部の百姓に手当てをするのでない、天朝の百姓に手当てするのだから、遠慮には及ぶまい。このことは三戸(松平家)の梨子真小一郎様に申し上げたところ『盛岡(南部家)重役の方に申し上げたが旧領へ格別の慈悲と喜んでおられた』とのこと。そのほうが断る訳はなかろうが」
六「何と申されても、いただけません。貴方さま方が百年説得されようとも、私の首が切られようとも変えられません」
あくまで意固地な六次郎。大道寺も真意を悟り
大「その方がこの後津軽に恨みを含んでいては御一新の御趣意にもとるというものじゃ」
と諭したが
六「いえいえ、たといお手当を頂戴したとしても、ふたたび兵乱が発しましたら、真っ先に駆けつけ狩場沢・平内(国境の村)はもとより青森までも火をかける所存。風向きによっては弘前までも推参致します」
と恐れ気もない不敵の返答。
大道寺もさすがにムッとしたか
「その節、その方が参っても、火などかけさせるものか」
と応じてしまう。これで話は六次郎ペース。
「そうなれば、この首を津軽に置いてまいるだけのこと。そちらさまから馬門へお討入なれば、このほうでお手前様方の御しるしを頂戴いたします。」
と、意気地のほどを示したうえで
「昨年の戦のおりに建てられました津軽藩戦死者の慰霊碑に悪戯をするのではないかとの御心配なら、御無用でございます。そのような者があれば、私が捕まえて国境に縛り付け、私の心底をお見せいたします」
と言って思わず落涙する。
野呂「これ、六次郎、何ゆえの落涙じゃ」
六「馬門村は辺鄙の地、人は頑愚ではありますが、旧領主を慕っております。子供が母を慕うようなもの。どうぞこの心底をお察し下さい」
両人もさすがに心折れ
「われわれ武士も及ばぬその方の心底、感じ入った。重ねては申すまい。だが、そのほうに関わりなく手当致すについては如何か」
六「私に関わらずされることであれば、とやかく申すことではございません。」

なかなかいい話だと思う。原文に理解しがたく臆断で改変した所があった点だけお断
りしておく。

October 24, 2015

海中寺阿弥陀如来

これも「野辺地雑記」から。
文化14年のこと、海中寺が火災にかかり本尊ごと焼失した。
ややあって、檀家の石松が伊勢参宮から大坂にまわり伝光寺を訪ねた。その晩、夢枕に阿弥陀如来があらわれ「我は当寺の本尊なるが、奥州にまいって衆生済度いたしたし。汝おぶってまいれ」と宣う。翌朝石松が住持にこのことを告げ、いかなる辛苦も厭わぬとの決意を示したので、海中寺に譲られることとなった。
石松は金比羅第権現の幟をたて、昼夜兼行、一月あまりで野辺地までたどり着いたという。「よくできましたね」と不思議がる人に石松が語ったところでは、この像は重かったのに背負うとなぜか軽く、また昼は自分が背負って歩いていたが、夜はいつの間にか眠ってしまい阿弥陀様に背負われていたという。何やら聞いたような…、あ、善光寺縁起だ。
それはともかく、宿場に入れば家々に提灯がぶら下がっておる。何事かと問えば、大坂から奥州へ阿弥陀様が御下向になるとお告げがあったという。実はこれこれと話し、法要を営みつつ下ったという。じゃあ泊まったんじゃないかとか、いちいち突っ込んではいけない。
聖徳太子手製という伝承もあったが、鎌倉時代の作というのが本当らしい。ただし台座は時代が下がって、石松とは別に舟便で来たよし。青森県指定文化財である。

October 23, 2015

神力丸の遭難

東北史に深い関心がある訳ではないが、とある事情から萌出忠男「野辺地雑記」と本を借りることになった。その中からちょっと面白い話を選んで紹介しようと思う。

文久3年8月、といえば京都で八月十八日の政変があって日本中が大変なのだが、野辺地でも大変なことがあった。銅・大豆などを載せた野村冶三郎の持ち船(800石)神力丸が暴風雨のために沈没し、五人が溺死したのである。
大正5年にこの神力丸の錨が漁網に引っかかるということがあり、八戸の某氏が南部家の了解のもと、引き上げを計画した。昭和5年の段階でまだ果たせず、あきらめきれずにいたということだが、その後どうなったことだろう。「野辺地雑記」出版までの半世紀に進展がなかったとすれば、おそらくそのまま、いまも海底に眠っていることであろう。

「雑記」は、神力丸に関わるエピソードをもう一つ紹介する。

大坂の蔵屋敷に勤める南部家用人某が、鴻池の主人に面会を求めた。何事ならんと出てみると、藩の借金を返済するから証文を見せよ、という。鴻池がこれを差し出すと、用人はこれを破り裂いて火鉢に投げ込んで言うよう
「実は借財を返済するための荷を積んだ船が遭難したため、返せないことと相成った。それゆえ拙者一存にて証文を焼き捨てた。これにより、貴殿には死んでお詫びいたす」
言うが早いか脇差を抜いて腹に突っ立て…ようとしたので善右衛門
「まあまあ、お待ちなされて下さりませ。あなたが死んだところでどうなるものでもございません」
となだめて、分割払いで話をつけたとのこと。

薩摩藩の財政を再建した調所広郷の逸話によく似ている。用人氏が小調所を気取ったか、誰かが作った話かは、私の関り知るところでない。

January 01, 2015

謹賀新年

皆様、あけましておめでとうございます。
毎年同様の挨拶で恐縮ではありますが、本年もまた、御見捨てなくご愛顧のほどこいねがいあげ奉ります。

November 24, 2014

泉岳寺隣接マンション問題

泉岳寺に隣接してマンション建設が計画され、これに住民が反対していることが新聞・テレビ等で報道されていた。その後の状況だが、住民運動の計画の変更を求める請願は採択されたものの、業者はまったく無視している状態だそうである。もはやほかの手段はなく、区に買い取りを求める新たな署名活動が開始された。
志のある方はぜひご協力していただきたい。
署名のお願い署名用紙をプリントアウトして、自署のうえ(親戚知人の分も集めていただけるとなお結構)守る会までお送りください。

May 21, 2014

続スパム

あいかわらず、迷惑コメントが多くて辟易してます。
最近はあっちも芸が細かくなって、日本語みたいなのも入ってきます。「みたい」というのは、まるで意味が通じないからで、たぶん自動翻訳なんだと思います。
それにしても、キャプチャコード入力するようにしても効果がない。人件費の安いところで手入力なんでしょうか?
本気でコメント拒否にしないとダメかしら?

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